【亡霊殲滅伝奇譚 -ゲシュペンスト-】 第4話
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「う……ッ……ううっ」
灼け溶けた皮膚を晒す黒骸――かつて篠原ヒデヒコだった者は、娘、サナの頸を触手で締め上げ、宙吊りにして掲げていた。
「あぁかッ……あッ…ぁあ」
サナは色の失せた瞳を見開き、口からは悲鳴になりきらない吐息を零す。
「サナ。これでお別れだ。ちゃんと楽しい場所へ行くんだよ」
「ぐっ……ぐぁッ……イヤ……だッ、たすけ」
「さよならだ」
ごきりッ。
黒骸が別れの言葉を言うと同時、鈍い音を立てて、サナの頸骨が捻じ切れた。幼き体躯は首をあらぬ方向に捻子曲げて、人型の肉塊と化す。
「ああ、こんな何もかもを失ったときでさえ、サナの瞳は綺麗なままではないか……」
感慨深げな台詞とは裏腹に、黒骸は躊躇いなくサナのうなじに触手を突き刺して、縦一文字に引き裂いた。生温かい血液が黒骸の顔面に飛び散る。高温に晒された血液は、その蛋白質を変性させ、赤黒く焼けつく。
「サナ。いったいキミはどんな味がするんだろうね」
言うなり、露出した脊椎の繋ぎ目に黒骸は顔を埋めて食らいつく。骨を噛み砕き、髄を啜り嚥下する。焼け石を水に浸けたように幼女の肉体からは異臭混じりの蒸気が上がる。
「ああ! なんと! なんと素晴らしいことか!」
苦みと甘さが渾然一体となった半粘液が口内に溢れる。口許からは薄緑色の霊力を放つ液体が滴り落ちていた。
「ユキコとアキヒコにも似たほのかな甘み! けれど、その奥に潜む芳醇でいて濃密な香り! これはサナだけの! サナだけが持つ輝き。ああ、素晴らしい霊髄ッ! このような極上の霊髄を摂取できる至福。これを幸福と呼ばずしてなんと呼ぶか!」
脊髄から溢れる霊髄を浴びるように、黒骸は少女を味わいしゃぶり尽くす。
「しかし、どうしてだ! どうしてなのだッ! んんぐッ! どうしてこの一瞬は……、んッ! 今というこのときで終わってしまうのか! どうしてこのときが永遠に続かないのか。私は幸福と同時に、その終わりを憂うぞ! 終わらせないッ! 終わらせてはやらぬぞ。ああ、大好きなサナ、絶対に離さない。サナッ!!」
霊髄が枯れ果ててもなお、その味を希求する黒骸は止まらなかった。完全に理性の歯止めを喪失していた。それは滝に打たれ狂い廻る水車のごとき怒濤の様。
少女の頭蓋を抉って脳を貪り、神経を一本ずつ引き摺り出して啜り咀嚼し、血の一滴までをも舐め吸い上げる。両眼はじっくりとその燦めきを楽しみ、焼け爛れたひとつは丸呑みに、ひとつは泥のように溶けるまで噛み締めて飲み込んだ。喰らうごとに人型を失うサナの身体を、それでも黒骸はその灼熱の胸に抱き、愛撫をやめなかった。少女の精神と身体を我が糧とせんと、文字通り骨の髄すら残さず喰らい、嚥下する。それはまさしく黒骸にとって、至福のときだった。
「私の愛しのサナ、これでやっとひとつになれた」
――どうしてここまで狂ってしまったのか。
黒骸自身、その問いに明快な答えを持ち合わせてはいない。論理的な説明などできはしない。でき得るわけがない。けれど、強いてその理由をあげるならば、『サナの瞳が綺麗だったから』と、そう彼は答えるだろう。そんな理由にもならない理由。たったそれだけで、突き動かされ、理性を失い、壊れ、狂喜に身を委ねた。それが彼のすべてだった。
「――ふぅ」
悦楽の時を楽しみ、その余韻に夢心地でいたときだった。
「……おい」
不意に現れた想像だにしていなかった黒衣の闖入者。その者を視界に捉えた瞬間、黒骸の幸せの絶頂は呆気なく終わりを迎えた。
「ああ、まったく……」
そして、とうとう来たかと自らの不運を呪わずにはいられなかった。至極の幸福と奈落の絶望は表裏一体。そんな妄想さえ思い、神を呪う。
「別に、今じゃあなくても良いだろうに。こんな時でなくたって」
黒骸は常に警戒を怠らず、抜かりなく事を進めてきた自負があった。この狩り場が露見するようなヘマはしていないという絶対の自信があった。その思いは今をもってしても揺らがない。にも拘わらず、抜き身の殺意を向ける敵が眼前に現れているのだ。これを絶望と呼ばずして何と呼べば良いだろうか。
「執行者」
対峙している黒衣の男は、噂に聞く亡霊の狩人。亡霊側を狩り、人間側を守護する存在。
〝――成程。風聞違わず、常人ならざる死の異香を野放しに撒き散らしている〟
ある種の武具には殺めた人の数だけ怨念とも執念とも言えぬ凶々しさが宿るという。それはどんなに磨いてもどんなに着飾っても決して拭いきれぬ妖の気。今、眼前に立ち尽くす男からはそれに比類する――否、それ以上の妖凶の念が問答無用に発散されている。
〝間違いない。こいつは。――私を滅ぼしに来た執行者だ〟
執行者について聞いた情報はそう多くはない。
執行者に出会えば、交渉の余地はない。即刻逃げるべき。逃げ切れなければ、それは消滅を意味する。――ということだ。
黒骸は目だけで庫内を見回して、万が一の場合を想定してあらかじめ確認しておいた屋外への逃走ルートを確認する。庫内に出入り口は四ヶ所。執行者が入ってきた屋外へと通ずる廊下、両隣りにある建物への連絡通路が二ヶ所。そしてもう一ケ所は頭上。屋根の辺に沿って設えられたガラス張りの採光窓だ。変質した両腕の触手を使えば、地上十数メートルの距離などあってないようなもの。つまり、数秒の刻があれば、執行者から逃げ仰せることができる。
黒骸は思う。いくら執行者と言えど、身体は生身の人間。どれだけの強化を重ねたとしても、肉体の変質化を遂げた超常の存在である亡霊に及ぶわけがない。ましてや忌敵はたったの一人……? 敵が一人であるという違和感はチクリと黒骸の生存本能を刺激した。
通常、執行者は、共鳴器と二者一対でペアを構成する。が、目の前の敵はただ一人きり。
〝……伏兵の可能性を考慮すべきか〟
黒骸は庫内に視線を巡らし、熱源走査する。人間一人の熱源を発見するには十分な超常の力だ。しかし、認めた熱源は四つだけ。かろうじて熱を留めていたアキヒコの遺体と、それを庇うように倒れた母――ユキコの遺体。狂おしく抱き炭化したサナの亡骸。そして、対峙する幽鬼のごとき男だけ……。どれだけ周囲を走査しても伏兵の存在は認められない。
〝やはり逃亡は容易い。これは僥倖。加えて今の私に霊髄摂取の恩恵は大きい。アストラル体に力が満ち満ちている〟
「娘を喰らったのか?」
庫内に響く男の声は、覇気も抑揚もない、嗄れた声だった。
「だったら?」
「……まだ、引き返せる」
「引き返せるだと?」
男の言葉を理解しかねる黒骸。
「お前はまだそこにいる。正しくそこにあるのだ」
けれど、言葉は祝詞のごとく重く響き、黒骸の身体から軋みが上がる。
「な、何を……」
〝何かが起きている!?〟
「その身体はお前の器。お前の意思で、精神で、止め阻むことができるもの。起きるのだ」
地響きのごとく黒骸の鼓膜を震わし、滑り込むように内耳へと侵入する執行者の声。その声は黒骸を理解できぬ不快に誘う。が、彼はその感情を撥ね退けて嘲る。
「ふふ、笑わせてくれる。何がお前の意思だ。何が止め阻むだ。執行者というのは亡霊に説教をする坊主か何かなのか?」
「主よ、かの者に救済を」
「ははッ! これは失敬。坊主ではなく神父様のようだ!」
嘲り嗤う黒骸を見下すように見遣ると男は小さく呟く。
「…………気がついたか?」
男の静かな言葉に黒骸は胸騒ぎを覚える。
「貴様、さっきから何を言っている?」
突如、黒骸の身体に異変が起きた。それは視界の変容だった。それまで正常に機能していた夜目が曇ったのだ。けれど、熱源探査は正常に機能している。ただ単純に〝目としての機能〟が損なわれたのだ。咄嗟に自らの眼に触手と化した右手を添えた。
「な、なんだ!? これはいったいどういう……」
黒骸の瞳から溢れ出すは血涙だった。血涙が気化して、視界を阻んでいた。
〝何が起こった!? 私は……泣いている? なぜだ? 何を悲しんでいる? ――いや、有り得ない。何も私を苛むものなどありはしない!〟
「貴様、いったい何をした!?」
「黙れ、屍念風情が。僕が用があるのはお前ではない」
「なッ……なんだと?」
黒骸はその言葉でようやく悟る。この執行者は『黒骸』ではなく、この身体の本来の宿主――『飼い殺していたヒデヒコの精神』に語っているのだ、と。
宿主の精神が執行者の囁きを契機に自我を取り戻しつつある。
これは黒骸にとって予想外のことだった。
黒骸の身体は――否、ヒデヒコの身体は瘧のように震えを始める。身体は力を失い、触手はだらりと脱力する。
〝拙いぞ、これは……〟
亡霊は人に取り憑く霊的存在である。憑かれた人間は亡霊にその精神を蝕まれ、肉体の主導権を剥奪される。しかし、亡霊は宿主の精神を完全に食い殺すことはしない。なぜなら、本来の宿主の精神を喪失した肉体は、一〇分と持たず土に還ってしまうからだ。ゆえに、亡霊は宿主の精神を生かさず殺さずで飼い殺した状態を作り出す。だが万が一、宿主の精神が活性化した場合、肉体の主導権争い――〝精神闘争〟が起こり、亡霊が肉体を制御しきれなくなる。
〝ヒデヒコの精神を喰らい尽くすか? ――だが、しかし……〟
宿主の肉体を失った亡霊は、脆弱な現象以下の存在になり果てる。その状態でこの状況から逃げ遂せることができるか……答えは火を見るよりも明らか。
自問を繰り返す黒骸を余所に、黒衣の執行者は言葉を紡ぎ続ける。
「お前は人を喰らった。たとえお前自身の意思でなかったとしても、それは紛れもない事実。お前の愛した家族はお前のせいで無残に死に絶えた。それはお前の罪科」
黒骸は思わず膝を突く。直立すら危うくなる。
ただ紡がれる言の葉。たったそれだけのことで黒骸は窮地に追いやられつつあった。悪魔払いが悪魔憑きに聖なる祝詞を上げ、悪魔を追い出す。これはまさにその具現だった。
〝執行者め!〟
「……ぅおッ……おぉ……」
黒骸の心の声は現実には言葉なり得ず、制御のままならない音として零れ落ちる。
「罪科は消えぬ。けれど、まだ立ち止まれる。引き返せる。いいか? 人として抗え。最後まで人として戦うのだ。それがお前の償いとなる」
言葉は重く鋭く精神を刺激する。
「お前がすべてを諦め、その身体の所有を放棄したとき、身体に巣喰う亡霊は完全なる自由を得る。今までの比ではなく、そいつは無辜の生命を喰らい続けるだろう。お前の家族のように、無残な人死にが大勢出る。それはお前個人の人食いよりもなお重き罪だ」
「っづ……みぃ……」
「身体を弄ばれ、人喰いを続けることはお前の本望か? あくまでお前は人。人の子なのだ。罪科を背負っても、最後の時は他人を救うためにあれ。この世に善なる意義を残せ」
「げぇ、ど……どぉ、やッテぇ!」
「抗うのだ。内なる悪を押さえ込め。お前の名は何だった?」
〝名前を思い出すのは自我の覚醒に直結してしまう。拙い〟
黒骸は焦っていた。このまま執行者の声に耳を傾け続ければ、いずれヒデヒコの精神が完全に目覚める。そして、黒骸の精神と衝突する。それは何としても避けなくてはならない。執行者を前にして精神闘争に拘っている暇などない。ならば、覚醒しつつあるヒデヒコの精神を千切り喰らっていくしかない。黒骸にとって臭気を放つ腐肉のごときヒデヒコの精神。その活性化しつつある一部分を喰い千切った。
「ああアァァッ!!」
けれど、これは時間稼ぎにしかならない。これを続ければいずれはヒデヒコの精神を食い尽くしてしまう。食い尽くせば、必定、身体の崩壊が始まる。
「名だ。名を思い出せ」
黒骸は喉奥から魂消るような絶叫を発しながら藻掻き苦しむ。
「やめるな。ここで諦めれば、お前に人としての死はない。名を思い出すのだッ!」
「ひぃでぇえぁぁぁああ!!」
ヒデヒコの精神を喰い尽くしたとき、黒骸の身体が崩壊するまでの猶予は一〇分。
一か八か、可能性のあるほうに賭ける。
〝――喰い尽くしてやるッ!〟
肉体が名を叫ばんとしたその瞬間、黒骸の精神は、ヒデヒコの精神の柔らかい部分から潜り込み、その深奥にある核を噛み砕いた。ヒデヒコの精神は完全に沈黙する。
「いッいぃいッ!! …………ッ」
「……間に合わなかったか」
アストラル体に纏っていたヒデヒコの肉体が土壁のように崩れ始める。崩壊の時計は刻一刻と進む。ここから一〇分でヒデヒコの肉体は完全に消滅する。そうなれば、肉体の剥がれた黒骸は、砂塵や飛礫で無に帰すような脆い存在と成り果てる。一〇分。その間に、黒骸はこの漆黒の執行者から逃れなくてはならない。彼は、両腕の触手を頭上の鉄骨の梁部に飛ばした。たった数秒。それだけの猶予さえあれば採光窓から逃げ切ることができる。
〝届く! ――届きさえすれば!〟
瞬き一つにも満たぬコンマ数秒以下の世界。だが、触手が梁部に触れることはなかった。黒骸の伸ばした逃亡の手は瞬時に黒き塵と化した。
「……ッ!?」
黒骸が逃亡の一手を撃ったその刹那、執行者の身体が風に揺蕩う葦のごとく波打ち傾いだ。庫内は無風。風など起こりうるはずがない。けれど、まさにそうとしか形容できない自然さで男の身体は傾ぎ、レインケープをはためかせた。あまりに自然な所作に黒骸はまったく対応できなかった。気がついたとき、執行者の揺れる右手には銃身の延長された鈍色の銃があった。
ダダダダダダンッ!
爆撃音に等しい咆吼が一轟。閃いた発火炎も一閃。しかし、ロングバレルを駆け抜けた弾丸は実に六発。弾頭が空を切り裂き――否、空を貪食しながら飛来する。
三発は黒骸の逃亡の触手に。もう三発は黒骸の頭部に。
〝さ、避けきれないッ!!〟
執行者の放った弾丸は半霊弾。霊子を纏いし対亡霊専用の弾丸である。霊子と霊子は互いに引き合う。重力と抗力然り。電子の自由移動然り。物質と反物質然り。黒骸のアストラル体も霊子から成る。飛翔する弾丸もまた霊子の塊。その二つが超近接状態にあったとき、引き合う二物の接触は不可避。なれば、その被害を最小に押さえる手段は、受け防ぎ致命傷を避けるより他ない。
黒骸は残る一方の触手を駆使して、頭部めがけて飛ぶ弾丸を受け止めた。触手は極限まで霊髄を流し込み強化を施したが、襤褸雑巾のように千切れ飛ぶ。
「……ッギぃギィ……」
〝堪えた。致命傷はない。なんとか凌ぎ切っ……!!〟
「……な、なんだとッ!?」
黒骸の視界が開けたとき、そこには執行者が眼前にまで迫っていた。
「お、お前ッ!」
弾丸の対処に全神経を集中していた黒骸は、弾丸を放った執行者の挙措にまで意識を向けることができなかった。防ぎの一手で視界を狭めたのも悪手であった。
弾丸の軌跡を辿るように、助走なく地を這って飛翔する黒衣。零から百への最大加速。
弾丸が執行者の凶撃の第一波だとするならば、それは間髪入れず襲い来る第二波。
「半霊の偽弾程度でこの様とありゃあ、大したことないね。本物をぶち込むまでもないよ」
金属の異音が人の言葉をなぞって嘲る。眼球と口の泳ぐ銀義手の腕が握るは短い倭刀を備えた漆黒の銃剣だった。
「循環素子帯霊」
大型リボルバー拳銃の銃身下部に設えられた刃長五寸五分の短刀が妖蒼に燃え立つ。刃の切っ先に並ぶ地蔵帽子の紋様が業火に焼かれ揺れる。
「疑似斬影構築」
刃が蒼き円弧を描き、刃面に地蔵の首が並ぶ。そして、その刃面の軌道には黒骸の首も。
〝な、なんだこれはッ!〟
黒骸の脳裡には自身の首が確実に切り落とされる光景がはっきりと視えていた。
「首刈り地蔵、一重」
黒骸に切っ先が突き刺さる。
「かぁはッ……」
それでも黒骸は喉頸を限界まで大きく逸らして刃を避けようと足掻いた。それが功を奏した。黒骸の首は保たれた。しかし、代償となって切り取られる下顎。下顎骨から舌を掠め、第二小臼歯までが崩れ落ちる。
「ひっひひひ、踊れ踊れ。逃げ惑え亡霊!」
「馬鹿にしてくれるなよ、人間ッ!」
黒骸は裂けた大口のまま、触手化した舌を刃にして執行者の額に突き刺しにかかった。
「くッ、まだあるか!」
執行者は銀義手で突き刺しの一撃を防ぐと、黒骸に踵脚を叩き込み後方に距離を取る。
「痛ってぇなぁ。おい、東雲。なんでもかんでもワタシを盾にするんじゃあないよ」
「ああするより避けようはなかった」
「わかってるよ。けど、文句のひとつも言いたくなっちまうのさ」
虚を突いた一撃さえも躱された黒骸が口から霊髄を滴らせながら憎悪を吐き出す。
「クソ! もっと力があればお前など捻り潰してやるのに。絶対に、絶対に許さないぞ!」
「その力がねぇからお前はここで死ぬんだよ、ひっひひひ」
「影法師、少し黙れ。良くない感じがする」
「良くない感じ? 奴はもう瀕死さ。いいじゃあないか少しの戯れくらい」
「事態を長引かせるのは得策ではない」
「それをお前さんが言うのかい? さっきまでご高説垂れてたくせに」
「あれは奴の中の宿主が生きていたからだ」
「はん、どうせ助からない精神だったんだ。かまわずぶち殺せば良かったものを」
「そうはいかない。人として抗える可能性があったのだ」
「はいはい。だからお前は半端者なんだよ」
「ふん、寄生している分際でよく言う。――いくぞ。次で終わらす」
再び黒衣をはためかせ、黒骸に執行者が飛来する。
カラン、カランカラン……。
空薬莢の排出音。その時点で次弾六発の装填は完了していた。飛翔の合間に、空薬莢を排出、腰のリローダーを宙に放り、次弾六発の装填までを終わらす早業。
銃口の昏い穴が魔窟の入り口のごとく黒骸に向けられる。
〝ダメだ。逃げ切れない。このままでは……。――んっ!?〟
飛翔し襲いかかる忌敵を前に、しかし黒骸は自身の身体の異常を覚えた。撃たれ失ったはずの五指に触覚があるのだ。爆ぜた五指の残骸。その切り口が硬度な鎧のようなものを纏って物質化していた。両の手を強く握ると、宿主であったヒデヒコの肉体はやはり土壁のように崩れ去る。が、その下には緑青色の肌が燦めいている。
〝なんだ!? これは……〟
その緑青の肌に流れるは、これまでに黒骸が感じたことのない程の霊力の奔流だった。
〝もしかしてできるのか? やつを殺すことがッ!〟
黒骸はそれまで逃げの一手に決め打っていた。今、この瞬間までその方法を模索していた。しかし、自身の身体の異常に気がついたとき、その考えを改めた。
〝――殺してやるッ!!〟
黒骸は静かに闘志を滾らせ、両手に銃を構える執行者を真正面から迎え撃つ。両手を背に隠し、五指に力を込める。触手は硬度を増し、緑青の爪手へと変貌する。
「おい、東雲。奴さん、何か変じゃあねぇか? 何か企んでやがる……」
銀義手の眼が一斉に黒骸に向けられる。
〝チッ、気取られたか〟
黒骸は迎え撃つでなく、咄嗟に間合いを詰めに駈けた。両者の間は長距離から接近戦へと転じる。
「くたばれ 執行者!!」
黒骸は背部から自身を串刺しにして十指の爪手を伸ばした。亡霊だからこそできる自身の身体を盾とした意表を突く攻撃。
「ッ!!」
執行者は黒衣のレインケープを巻き上げて視界を遮る。しかし、そんなことでは黒骸は止まらない。両手の十本の凶手。この距離ですべてを避けきることは不可能。
「くッ!」
布地には十の穴が穿たれた。五指は固い金属に阻まれた感触を。二指は宙を抜けた感触を。そして、三指には確実に敵の肉を貫いた感触があった。黒骸は執行者の肉体に突き刺さったその三指を抉るように引き裂く。
「がはッ!」
〝通った! ――ん?〟
宙を抜けた凶手の一指が何が生温かい感触を伝達する。
「東雲よぉ。この味……第二屍念の味じゃあねぇぞ。こりゃぁ死神だ。こいつ戦闘中に死神化してやがる。半霊弾では殺し切れないぞ」
「……そうか」
「何をごちゃごちゃと言ってやがる!」
黒骸はさらに突き刺した肉体の感触のある場所に追撃の舌槍を飛ばす。が、執行者の対応の方が先んじて動いていた。黒衣越しに六発の銃弾を乱れ撃つと、地を横転して待避。工作機械の物陰に転がり込んだ。
「逃げるな、執行者! 今殺してやる!!」黒骸の怒りに満ちた声が庫内に虚しく谺する。
「何処だ! 何処に行った!」
所狭しと工作機械の配置された通路を人の駈ける音が反響する。そして、その反響には例の甲高い金属の声も混ざる。その異常に高い声音は、正確な敵位置の把握を困難にする。
「ひっひひッ! こりゃあ、お食事の時間だな、東雲」
「……そうだな。仕方あるまい」
「そこか執行者!」
男の声が聞こえたと覚しき方角に凶手を伸ばすも、空を切る。
「喰い甲斐のない弟子だねぇ。出荷前の豚さんでももう少しわめくってのに」
カランッカランッ。カラ、カラカランッ。
空薬莢の排出音が庫内に響く。執行者の位置を捉えようと耳を研ぎ澄ましていた黒骸にとってこれは絶好のチャンスだった。敵の居場所を把握するに絶好の音である。
しかし、それは彼に不安をもたらす。
〝五発分だけ?〟
先の接近戦で撃たれたのは六発。ならば、リロードで捨てられる薬莢の数も六発になるのが通常の計算である。
〝反響で聞き間違えたか? 本当に……?〟
「んっぐ……、やっぱり何度やってもこの金属と火薬の味は慣れないねぇ、で、何処を喰らう?」
「霊痕看破」
黒骸の背筋から太腿にかけてを冷たいものが駆け抜けていく。
「敵の右大腿骨に亀裂を確認」
「しゃあッ! まだ喰らってない部分だな。しかも大腿骨! 上物じゃぁねぇか!」
「そうだな。運が良かった」
「運が良かっただぁ? お前さんにとっては不運以外の何者でもないだろうに」
「うるさい。いいから、早くやれ。影法師、――霊縛解錠」
「言われなくても。喰らってやるさ!!」
「……ぐっ、ぐぁあ」
黒骸は呻き声の聞こえた背後を大きく振り返る。十五メートル以上先。そこにあるのは作業用クレーンだった。その上部にある操作スペース。確かにそこに蹲る人影があった。
「見つけたぞ、執行者!」
黒骸は両脚の筋肉を膨張させる。土塊の肌が崩れ、その下には緑青の肌が晒される。
〝やはりか! 私は生まれ変わった! 強大なる執行者を撥ね除ける力を得たのだ!〟
歓喜に震え、彼は一気にクレーン台に飛び荒んだ。
「早く喰らえ! 影法師!!」
「仰せのままに、我が弟子よ」
「……がぁああぁあ」
「右大腿骨霊髄一七ミリリットル。圧縮率九八パーセント。仮想次元構築精度八七パーセント。霊装魔弾排出」
「もう遅いぞ! 切り刻んでやる!」
クレーン台に飛び込んだ黒骸はその凶手を振り上げ執行者を切り刻む――筈だった。しかし、そこにあったのは黒衣を纏わせたサナの遺体だった。
「どうしてサナが! 私の大切なサナをよくも身代わりに! この外道がッ!!」
執行者の声はクレーン台の真下から声が聞こえる。
「仕留めるぞ」
「動けるのかい?」
「足を喰われて動けると思うか?」
「まあ、無理だろうねぇ」
「ここから仕留める。――循環素子帯霊。疑似弾道構築」
執行者の声と同時、霊子の射線が庫内全域を格子状に幾重にも折り重なり張り巡らされた。庫内の何処にもこの射線から逃れ得る場所はなかった。突如として発生した檻のごとき光の乱舞。それは世界に罅が入ったかのような光景だった。
黒骸は庫内に広がった霊子の射線に困惑と恐怖を感じる。
「――ッ!」
そのすべての射線が黒骸の身体を貫いていた。身体は粘り着くように射線に絡め取られる。謎の光は触れても痛みを伴わない。けれど、脳内では大音量で警報が鳴っている。
〝これは危険だ。早く……早く逃げなくては〟
力を得て執行者を殺せると思った黒骸だったが、この異様な雰囲気と妖の気は、彼の対抗意思を完全に挫いていた。黒骸は先に逃亡を図ったときと同じく、宙空に触手を伸ばす。跳躍して梁部に張り付くと、窓を破って一目散に屋外に飛び出した。屋外は地を撃つ豪雨。
黒骸の人影だけが雨を遮り、ぽっかりと宙に浮かんでいる。
「――霊装魔弾、籠目」
雨降りしきる空中にて、それは天より降りし護法剣のようだった。
目映く光る射線が籠目の紋様を描いて黒骸を取り囲む。
「んがッ! ぐふっ! あがッ!」
弾丸が一発右腕を貫通する。弾丸が一発左肩を貫通する。弾丸が一発右脇腹を貫通する。弾丸が一発眼球を貫通する。弾丸が一発右足首を貫通する。弾丸が一発右上腕部を貫通する。弾丸が一発喉頸を貫通する。弾丸が一発右心房を貫通する。弾丸が一発脳天を貫通する…………。弾丸が一発、右大腿骨を貫通する。
「あぎゃぁァァァァァァァァァァ!!」
無限に等しい弾丸に貫かれた黒骸は、その身を一片たりとも残さず豪雨に攫われる。
「人に仇なす亡霊よ――」
執行者の紡いたその最期の言葉が、雨風猛り狂うただ中にあった黒骸の耳に届いたかは不明である。――否、おそらくは物理的には届いていなかっただろう。しかし、黒骸は確かに最後の刻、死を告げる執行者の声を耳ではなく、その〝精神〟で聞いていた。
穿つ弾丸の一発一発が黒骸に語っていた。
「――死に還れ」
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