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わたしの、いばしょ。


何でも自分でやってみないとわからない性格。


自分でやってみてから初めて、それが自分にとって良いことなのか悪いことなのか納得する。誰かから口頭だけで教わったとしても、なかなか自分の奥そこまで落とし込むことができない。

私には、そんなところがある。


私はずっと、他者に自分の居場所をもとめて生きてきた。最近まではそのことにも気づいてなくて、そしてそのことの何が問題なのかもよく分かっていなかった。


「人間にはどんな人にもそれぞれの持つ可能性があって一人ひとりの人の可能性がどこかで、困っていたり悩んでいる誰かにとっての助けになることがある」と私は信じているからこそ、そんな人間の集まる場所は誰かにとっての「居場所」にもなりうる。と、思っていた。

でもそう思うことと、自分の居場所を自分自身の中に見出して確立させるよりも前に、他者の中に見出そうとすることはまた別軸のことなのに混同してしまっていたところが、あったのだなぁとようやく気がつけた。


それは「居場所」ではなくて「依存」だった。


自分の中に自分の居場所が確立できていないから、誰かに求めてみたところで、自分の機嫌によって揺らいでしまっていた。。相手のひとが自分の機嫌によって、味方にもなれば敵にもなった。


それはお互いにとってとっても不安定なこと。


何度も何度も何度も、失敗をして初めて、そのことにすこしずつ、気づくことが出来た。


お花と話しているときが、心地いい。

一人で黙々と本を読んでいる時が心地いい。

心赴くままにお散歩しているときが心地いい。


それが、今の私の中につくったわたしの居場所なのだ。


泣いたり、笑ったり、時には喧嘩をしたり仲直りしたりしながら、これからも私はそんな私と一緒に生きていく。

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