たそがれのディードリット[エピソード2・参道での仇討]
あたしたちはヴァリス王国の首都ロイドまであと三日というところまでたどり着いた。カノン辺境の荘園ナヌカで巡り合った出来事に、ジークは当初かなりショックを受けていたが、旅を続ける数日のうちに彼は元の快活さを取り戻した。ナヌカでのことも、それから二人の間で話題に出ることはなかった。
一方でロイドに近付くにつれて、ジークの心は別なことにとらわれ始めたようだった。最初は単純に母親と再会することに緊張しているのかと思ったが、やがてどうもそれだけではないような気がしてきた。
宿場町で休んでいる時にも、彼はしばしばあたしに剣の手合わせを頼んできた。彼の実戦を見たのはナヌカの戦いだけだったけど、その戦いの前と後では彼の剣筋に微妙な違いが生じたように感じた。また最近の手合わせでは、彼の剣筋の緊張感がこれまでより高まってきていることを感じた。
そしてこの日の夕食の後、彼はあたしにこう告げた。
「……ユリ、この後少し、オレの話を聞いてくれないか?」
「あらジーク、どうしたのかしこまって。まさか愛の告白かしら?」
「ユリ、茶化さないでくれ。真面目な話なんだ」
彼は真顔で言った。そういえばいつも夕食の時に飲んでいたエールも、この日は彼は一杯しか飲んでいない。
あたしは彼の部屋に入って、話を聞くことにした。
「実は、オレがヴァリスに行く目的は……父の仇討なんだ」
「えっ……お母さんに会いに行くんじゃ……」
「うん……それもそうなんだけど、父の仇討を見事に果たして、晴れて母に報告しに行きたいんだ」
そしてジークは、仇討にいたる経緯について話し始めた。
ジークの父親は、もともとアラニア王国の出身だった。父親の名前はフリードで、その父親、つまりジークの祖父は、れっきとしたアラニア王国の貴族であるムント公爵であった。しかしムント公爵は王国内の政争に敗れ、息子のフリードを連れて国を出て、浪人としてロードス島各地を放浪した。
長い放浪生活の果てに、ムント公爵は失意のうちにこの世を去ったが、息子のフリードはヴァリス王国に仕官することが出来、従騎士となった。そしてほどなくしてフリードはひとりの女性と知り合って結ばれた。こうして生まれたのがシグルド、すなわちジークであった。
ジークの父親フリードは従騎士の身分であったが、その優れた剣の腕が次第に評判となり、聖騎士への登用も近いのではないかと噂されるようになった。そしてついに、ファリス神殿の春の例大祭で催される奉納試合の選手として抜擢された。
ファリス神殿の奉納試合では、例年、ヴァリス王国の剣術指南役と、聖騎士や従騎士の中から選ばれた剣士が試合を行うのが慣例となっていた。この奉納試合で勝利することが出来たなら、フリードの聖騎士団入りは確実とみなされていた。
ヴァリス王国の剣術指南役を勤めるのはゲンザという男であった。元は傭兵であったが、その剣の腕を買われて聖騎士に登用され、合わせて剣術指南役に任じられたのである。
ただこのゲンザという男、表では品行方正な言動を見せつつ、裏では勝つためなら手段を選ばない卑怯さを持っていた。そしてフリードの評判を聞き付けるや、早いうちにその芽を摘んでしまおうと思い立った。
さてヴァリス王国の従騎士は、五人一組の仲間を作り、組頭と呼ばれる一人の聖騎士がこれを監督した。従騎士たちは日々、番所と呼ばれる施設に出勤し、そこで組頭から仕事の指示を受けることになっていた。従騎士の仕事としては、王城や王都の警備、軍隊の馬の世話や戦車の手入れ、さらには軍事教練などがあった。フリードが付いた組頭はグスタフという騎士で、面倒見の良い男として評判であった。彼は時に仕事を終えた部下の従騎士たちを屋敷の食卓に招いたり、飲みに連れ出したりすることもあった。そしてその日は、フリードが奉納試合の選手に選ばれたことを祝い、グスタフの組で仕事終わりに祝杯を上げることになった。
ファリス神殿の参道には、様々な店や屋台が軒を並べている。昼間はもっぱら神殿に捧げる花を売る屋台や、観光客へのお土産物を売る店、食堂や喫茶店が多いのだが、夕刻になると酒を出す屋台が増え始める。
もっともヴァリス王国は正義と信仰と重んじる国なので、酒に関してはどちらかというと慎むべきものという雰囲気が強い。しかしファリス神殿の参道には、酒を「お神酒」と称して売る店が多く出るのだが、そこで飲む分にはいくぶん寛容に見られていた。
フリードたちはそんなうちの一軒で飲み始めた。しばらくしたところで、何やら表通りが騒がしい。見ると、馬が一頭、通りで暴れており、馬上の人影がそれを御そうとしていた。
実は馬上の上の人物こそ、剣術指南役のゲンザだった。しかもわざと馬が暴れているように見せるため、たくみに綱をさばいていた。
ゲンザは、どこかからこの日フリードが参道の酒場で飲んでいることを聞き付けた。そしてフリードのことだから、馬を止めようと飛び出してくるだろう。そこを馬で踏み付けて、上手くいけば殺害、そうでなくても重傷くらいは負わせられると企んだのである。
案の定、フリードは屋台から飛び出て、暴れ馬につかみかかった。しめたと思ったゲンザは、そのままフリードを蹴り殺そうとした。
しかしフリードの方が一枚上手だった。彼は恐れることなく手綱をつかむと、ものの見事に馬を大人しくさせた。フリードは浪人する前に、父のムント公爵から馬術の手ほどきを受けており、馬のあつかいには慣れていたのだ。
あてがはずれたゲンザは、馬から飛び降りた。
「ちっ……余計なことを」
何気なくつぶやいたゲンザの言葉を、フリードは聞き逃さなかった。
フリードはゲンザをにらみつけて言った。
「そこにおわすはヴァリス王国剣術指南役のゲンザ様とお見受けします。それがしは従騎士のフリードと申す者。身分卑き者なれど、ひとこと言わせていただきたい!」
そしてフリードはゲンザの方を向いて続けた。
「恐れ多くもここはファリス神殿のご参道。そこに下馬せずに乗り付け、あまつさえ暴れ馬にするとは言語道断! 往来の人々を危険にさらすだけでなく、ファリス神にも不敬極まりない振る舞い。反省なされませ!」
「おのれ下郎、言わせておけば!」
ゲンザは顔を真っ赤にして叫んだ。
ゲンザはフリードに殴りかかったが、フリードは軽く脚をはらってゲンザを転倒させた。ゲンザの倒れたところにはちょうど尖った石があり、彼の額が割れて赤い血が吹き出した。周囲を取り囲む人々は歓声とも悲鳴ともつかない声を上げた。
倒れたゲンザを見下ろして、フリードは言った。
「それがし、今は身分低き従騎士なれど、元はアラニア王国の公爵家の生まれ。傭兵上がりの貴様などとは生まれも育ちも違うのだ。下郎などと、無礼千万!」
ゲンザは立ち上がった。その顔は血でまみれており、醜くゆがんでいた。そして腰のブロードソードを引き抜くと、フリードめがけて打ち込んだ。
フリードは携帯していたショートソードを引き抜き、ゲンザの剣を受けた。そこは一瞬で果たし合いの場となった。周囲の人々は悲鳴を上げてその場から離れ、その様子を遠巻きに見た。
ゲンザはブロードソードを上段に構え、袈裟斬りで打ち込んだ。フリードはショートソードで受け止めた。立て続けに二回、ゲンザは打ち込んだが、そのいずれもフリードは受け止めた。
そこで突如、ゲンザの構えが変化し、上段からの逆袈裟斬りで打ち込んできた。これまでと反対の右側から刃が襲ってきたので、フリードは一瞬、ショートソードで受けるタイミングが遅れた。そこをゲンザは見逃さなかった。
フリードがショートソードを構え直すより先に、再びゲンザの刃が右側から襲ってきた。フリードはそれを受け止めきれず、ゲンザのブロードソードがフリードの右肩から左胸にかけてを斜めに切り裂き、血しぶきが舞った。
倒れたフリードを見下ろし、ゲンザは吐き捨てるように言った。
「身の程知らずが、高い授業料だったな」
グスタフと仲間の従騎士たちがフリードに駆け寄ったが、右の鎖骨のところにある動脈を切断され、もはや手の施しようのない状態だった。
この事件は、奉納試合前の、しかもファリス神殿の参道で起こった私闘として、瞬く間に人々の噂となった。ヴァリス聖騎士団の監察官たちの委員会は、ゲンザに三か月の出仕停止を言い渡した。一方のフリードについてはお家取りつぶし、グスタフと仲間の従騎士にはそれぞれ一か月の出仕停止となった。フリードへの処分が重すぎることに疑問の声を上げる者も多かったが、監察官たちは従騎士であるフリードが聖騎士であるゲンザに不敬な態度を取り、あまつさえ挑発するような言動を取ったことを問題視した。これがヴァリス王国の国是である、ファリス神による正義と秩序を乱すものと判断されたのだ。
残された息子のシグルドはこの時まだ六歳であった。グスタフの尽力もあり、シグルドはモス公国を構成する小国のミト国の領主の元に預けられることとなった。そして母親のリリは、ファリス神殿の中の病院で住み込みで働くこととなった。ファリス神殿の中であったら、ゲンザやその取り巻きから逆恨みによる嫌がらせを受けることもないだろうという、グスタフの配慮であった。
こうしてシグルドことジークはわずか六歳にして父親を失い、母親とも別れなければならなくなった。別れの前の晩、母親のリリはジークに『ソガ兄弟の物語』を話して聞かせた。ロードス島に古くから伝わる仇討の物語である。
「いいですか、ジーク。あなたは父の仇を討たなければなりません。それが騎士の家に生まれた者の定めです。次に母に会う時は、見事仇討を果たし、そのことを母に報告するために来る時です」
母親のリリは毅然とした表情で告げた。
そして三日後、あたしたちはヴァリス王国の王都ロイドに入った。すでに遅い時間だったので、まず宿を定めることにした。ロイドにはしばらく逗留することになりそうだからである。
あたしはジークの話を聞いて、ジークの仇討の見届け人になることを買って出た。これまでの旅は順調だったので、少しばかりここに留まっても差し支えないと判断したことと、やはりジークが思いを遂げることに少しでも手伝うことが出来ればと思ったからだ。ジークももちろん快諾してくれた。
宿の一階のレストランで、あたしたちはヴァリスの名物料理を頼んだ。あたしにとってのヴァリスの思い出は、英雄戦争の時、まだファーン王がご存命だった時に、宮廷のパーティーに招かれたことが強く印象に残っている。戦時下にも関わらず、贅を尽くした料理と、綺麗に着飾った婦人たちの様子は、今でも目に浮かぶ。
ところが出てきたヴァリスの名物料理と称するものは、ソーセージとマッシュポテトとキャベツのピクルスを皿に盛り付けたもので、他にパンとスープが付くだけのものだった。何とも質素な料理である。
「ヴァリスといえば質実剛健な気風なので、庶民の料理はこんなものなのさ」
「でも、メインがソーセージっていうのはどうなのかしら? ソーセージって料理って言うの?」
あたしは不平を言いながらソーセージをナイフで小間切れにしてフォークで口に運んだが、意外といけた。
「あら、美味しい! 中のひき肉にハーブとスパイスが練り込んであるわね」
ソーセージのスモーキーな香ばしさと、ハーブとスパイスによる香りが、飲んでいるエールとぴったり合った。これならエールが何杯でも飲めそうである。
「母の作ってくれた料理も、こんな感じだったかな……」
そうだった。ヴァリスはジークにとっては生まれ故郷で、六歳まで過ごした地だったのだ。
「ごめんなさい、ジーク。ヴァリスの味は、あなたにとっては母の味なのよね」
ジークは照れたような表情を見せた。その表情をあたしは可愛いと思ったが、その内側には父親の仇討という強い覚悟が秘められているのだ。
食事を続けながら、明日以降の計画について話し合った。
「オレはまず、グスタフ卿のところに相談に行ってみることにする」
ジークはモス公国のミト国を出る際、その領主から仇討の免状を預かっていたが、あくまでそれはモス公国が陪臣であるジークに対して発行したものであり、ヴァリス王国において有効なものではない。そのため、ヴァリス王国で仇討の許可を得なければ、仮にゲンザを討ったとしてもそれは殺人罪となってしまう。そのため、グスタフ卿を通じて聖騎士団の評議会に仇討の上程をおこない、そこで承認されて初めて仇討をおこなうことが出来るのだ。それには遠い道のりが予想された。
「あたしはロイドにいる旧友に会ってくるわ。彼は聖騎士団にもコネクションがあるから、何か協力してくれるかもしれない」
翌朝、ジークはグスタフ卿の番屋に向かい、あたしはファリス神殿に向かった。
ファリス神殿につながる、幅の広いまっすぐに伸びた参道を歩きながら、ここがジークの父親のフリードの因縁の場となったのかと感慨にふけった。
一対の巨大なアトラス像が守護する壮大な南大門をくぐると、正面には大神殿の建物がそびえており、そこへ通じる長い道の右側には神殿の事務をおこなう庁舎が立ち並び、左側には学校や病院、神官たちの寮があった。あたしは左側に進み、寮のひとつにたどり着いた。三階建ての建物で、アパートメントのようになっている。あたしは外付けの階段を三階まで上がり、ドアをノックした。
「やあ、ディード。ひさしぶりだね。相変わらず元気そうで良かった」
旧友のエトが、笑顔で出迎えてくれた。
彼に会うのも十年ぶりだった。おかっぱ頭はきれいな白髪となっていた。丸眼鏡をかけて、ポルカドットの模様のゆったりとしたニットを着ている。現役の頃の彼は、もっぱら法衣を着ておりおしゃれとは無縁な感じだったが、だいぶ雰囲気が変わったようだ。
「まあ、まずはお茶を一杯。ホットミルクティーを用意するよ」
「ありがとう、エト」
あたしは応接間のソファーに腰を下ろした。中の様子を見ると、応接間と、他に部屋が三つ。あとはキッチンがあるだけの、シンプルな間取りだ。おそらく他の神官たちの部屋と変わらないだろう。かつてヴァリス王国の国王をつとめ、さらにファリス神殿の最高司祭をつとめた人物にしては、質素すぎる居宅といえる。でもそのあたりにエトの性格が出ているように思う。
思えば、エトも今は一人暮らしなのだ。妻であり、ファーン王の娘であったフィアンナ姫を十数年前に亡くし、その時エトも最高司祭の職を辞することを考えたそうだが、請われてしばらく続けることとなった。そして十年前にパーンが亡くなった時、エトもこれを区切りとして完全引退を決意したという。
「実はね、現役の時はずっと髪を染めていたんだ。楽隠居するようになって染めるのをやめたから、ご覧の通り真っ白になってしまって、びっくりしただろう?」
「いいえ、とっても似合っているわ。素敵よ」
エトはお茶とお菓子を持ってきてくれた。お菓子はジンジャークッキーだった。
今日の訪問に先立って、あたしは伝書鳩に言伝を頼んでおいたので、エトには訪問の経緯などはすでに伝わっているはずだ。
「旧交を温めたいところだけど、まずは例の仇討の件について、詳しく話を聞いた方が良さそうだね」
あたしはジークの仇討のあらましについて語った。エトはうなずきながら真剣な顔で聞いていた。
「そうだったんだね……そのような者が聖騎士団の剣術指南役をつとめているとは、これはヴァリス王国の責任だね。申し訳なく思うよ……」
エトは国王と最高司祭に就任している間、聖騎士団とファリス神殿にはびこっていた腐敗の一掃に尽力してきた。ファリス神の信仰は正義と秩序を重視する。しかしそれは時に独善と不寛容におちいる。その根は深く、エトにしても完全に払拭することは出来なかった。またゲンザのように不正義な心の持ち主がその中にまぎれていても、それを看取し、あるいは正すような自浄作用が十分機能していなかったと言わざるを得ないだろう。
あたしは半分くらい精霊の世界に身を置いているので、完全な正義や秩序などは存在せず、それらは相対的な概念に過ぎないと思っている。だからといって無神論者というわけではなく、大地や宇宙を包み込むような、大いなる存在があることを常に意識している。これはどちらかというとマーファ神の信仰のあり方に近いのかもしれない。
とはいえエトにしてもパーンにしても、その意志の強さと行動力は、おのれの信じる正義に基づいているようだ。その意味で彼らの言動はファリス神の信仰と合致している。パーンは自分でファリスの信徒であると明言したことはなかったと思うが、この幼馴染のエトからの影響が、彼の人格形成に大きな役割を果たしたことは想像だに難くない。
「良く分かったよ。すでに起こってしまった不正義を正すのもまた、僕たちファリス信徒の役目だからね」
そう言って彼は応接間の隣の書斎に行き、机に向かって書き物を始めた。本棚には経典や神学書とおぼしき書物が整然と並べられている。
エトは、最初は何かの裏紙を取り出して、そこに時間にして十分くらいかけて何かを書き付けた。その後、その下書きを十分くらいかけて注意深く読み返し、推敲をしてから、さらに十分くらいかけて真新しい紙に清書した。書き終わり、インクが乾いたことを確認すると、彼はそれを封筒に入れ、蝋で封印をした。
そして書斎の机のかたわらに下がっていたひものようなものを引っ張ると、遠くで鈴のような音が鳴るのが聞こえた。しばらくすると玄関のドアをノックする音がした。
「いつもお使いを頼んですまないね。この手紙を、聖騎士団の秘書室に届けて欲しいんだ」
エトは、玄関の外に立つ法衣を着た少年に、先ほどまで書いていた手紙を手渡した。
「聖騎士団の団長宛によろしく伝えてあるので、たぶんその青年の仇討の上程も、すぐに承認されることになると思うよ」
「ありがとう、エト!」
あたしは旧友の協力に感謝しつつ、このヴァリスという巨大な、しかしどこか脆弱なこの国が、まだまだエトという存在を必要としていることを感じ取った。
その後はエトと思い出話に花を咲かせた。お昼には、彼がミートパイをふるまってくれた。事前に仕込みをしてくれていたようで、お昼前にオーブンに火を入れ、十分暖まった頃にミートパイを入れると、しばらくして香ばしい匂いがただよってきた。エトはそれほど飲めるクチではなかったが、あたしのためにワインを用意しておいてくれていたので、開けて二人で乾杯した。
いつの間にか日も傾き始めていたので、あたしはエトのところをおいとますることにした。寮の階段を降り、しばらく歩いて病院の横を通った。この病院はファリス神の教団が運営しているもので、恵まれない人にも無償で治療を施しているとのことだった。
そして偶然、見覚えのある人影を見つけた。
「ジーク?」
そういえばジークの母親はこの病院で働いていると言っていたのを思い出した。母親に会いに行くのだろうか……向こうはこちらに気付いた感じではないので、あたしはとっさに身を隠した。そしてジークの行く先を目で追うと、先ほどまでいた寮によく似た建物に向かい、その一階にある一室の前に立ち止まったのが見えた。おそらく病院の関係者の寮なのだろう。
あたしは風の精霊シルフに命じて、ジークの周りの空気の振動を直接、自分の耳元に伝えるようにした。
しばらくするとドアが開き、中から白い服を着た女性が出てきた。遠目で見た感じ、おそらく四十前後くらいだろう。
「……母上」
ジークの声がシルフに運ばれてあたしの耳元まで届いた。
女性はしばらく黙っていたが、やがて言葉を発した。
「……私には子供は一人しかおりません。その子は、父親の仇討を見事、果たした後でないと、私に会いに来ることはありません」
ジークはしばらく沈黙していたが、しばらくしてこう言った。
「……母上、いまだ仇討を果たすことが出来ぬままに、こうして参りましたこと、なにとぞお許しください。仇討は必ず果たして見せます。しかし、その前に一目、母上にお会いしたかったのです」
それに対して女性は毅然とした口調で応えた。
「先ほど申した通り、私の息子はただ一人。父親の仇を討ち、ムントの家名を受け継ぐ我が子シグルドだけです。お引き取りください」
「お待ちください……せめて心ばかりではありますが、これをお受け取りください。私がこれまでの旅でいくばくか蓄えてきたものです」
そう言ってジークは皮袋のようなものを女性に手渡そうとした。しかし彼女は受け取らず、こう返した。
「私が欲しいのは、ただ仇の首だけ……あなたが私の息子を名乗るなら、せめて仇の首をお持ちください」
そう言うと女性は部屋の中に入り、ドアを閉ざした。
ジークはしばらく無言で部屋の前にたたずんでいたが、やがてゆっくりとその場を離れ、神殿の南大門に向かって歩き始めた。
あたしはその様子をしばらく隠れて見ていたが、いたたまれない気持ちになった。そしてジークの姿が完全に見えなくなったところで、先ほどの女性の部屋を訪ね、ドアをノックした。
「どなたですか……?」
先ほどの女性の声がしたので、あたしは答えた。
「突然、お訪ねして申し訳ありません。あたしはユリケンヌと申します。ジーク……シグルドと一緒に旅をしている者です。彼の仇討では見届け人をつとめさせていただきます。少しだけ……お話を聞かせていただけないでしょうか?」
しばらく女性は沈黙している様子だったが、やがてドアが半分だけ開けられた。そこから覗いた女性は、白いチュニックを着た栗色の髪の女性だった。先ほどジークと話していた、彼の母親とおぼしき人物で間違いない。彼女はしばらくじっとあたしの目を見つめると、
「お入りください」
と言って部屋の中に入れてくれた。
中の間取りはエトの家よりシンプルで、応接間とキッチン、あと寝室が一部屋だけついているようだ。あたしは応接間のテーブルの椅子に腰掛けるようすすめられた。
彼女はリリと名乗り、紅茶の用意をしてくれた。その様子を横目で見ながら、彼女の美しさに思わず見惚れてしまった。年齢は四十になるかならないかくらいで、目尻には年相応なしわも見えたが、それにもまして力強い意志を感じさせる眉毛と目鼻立ちが、年齢とは関係のない彼女の美しさを表現していた。
「先ほどの様子をご覧になっていたのですよね……ずいぶん薄情な母親と思われたことでしょう」
「すみません……ジークには気付かれないように、こっそりと後をつけて盗み聞きしてしまいました」
「でもあなたは、しっかりした自分をお持ちの方のようですね」
「えっ……?」
「あなたの声を聞いて、そんな風に思いました。きっとあなたの方が、ジークよりもずっと大人だから、ジークにあなたのような方が付いていてくれたことに、感謝します」
あたしはちょっと気恥ずかしくなった。
「私も、ジークをすぐにでも抱きしめてあげたかった。でもそうしてしまうと、ジークの決意がゆるんでしまうのではないか……あの子には、あの子が見事、本懐を遂げるまでは、会うべきではないのです」
彼女は静かな口調でそう語ったが、おそらく胸の中の感情をおさえて、冷静さを保っているのだろうと感じた。
「あの子にはつらい運命を背負わせてしまいましたが、あの子にとっても、その運命を乗り越えていかない限り、あの子の先の人生はありません。それが騎士の家に生まれた者の定めなのです。ユリケンヌさん、あなたも戦士でしたら、その道理はお分かりになるでしょう……?」
あたしはうなずいた。最初は、この母親がなぜ仇討にこだわるのかよく理解出来なかった。過ぎてしまったことより、今生きている息子のことを第一に考えるのが母親ではないのか、と。しかし彼女の言動を見て、彼女はジークのことを第一に考えるからこそ、彼に仇討を果たすよう言い含めたのだと思った。つまり彼が仇討から逃げてその後の人生を送ったとしても、決して彼はその負い目から逃げ切ることは出来ず、満たされないままの生涯を送ることになるからだ。
このあたりの感覚は正直なところ、エルフであるあたしには実感として感じにくかったところがある。なぜなら無限の寿命を持つエルフにとって、人生の意味や使命などは、それこそあまり意味もなく関心も持たれないことだからだ。かつてのあたしもそうだった。しかしここ数十年、人間と関わりを持って生活するようになり、そしてパーンという最愛の伴侶の人生の最期までを看取ったことから、人生の意味や使命について意識するようになった。そしてそれは人間にとって時に、生命としての生存よりも優先するものであるということも。
「リリさん……あなたは息子さんが見事に仇討を遂げられることを、確信していらっしゃるのですね」
彼女はあたしの目をまっすぐに見て、答えた。
「ええ、もちろん」
その目には大粒の涙が今にもこぼれ出しそうなほどにたまっていた。
あたしはリリさんの家を後にした。あたしが彼女と会ったことは、ジークには決して言わないことを二人で約束した。
宿に戻ると、一階のレストランですでにジークが待っていた。
「ジーク、ごめんね。ずいぶんと話し込んでたら遅くなっちゃった」
「全然!」
「荷物を置いたら、すぐ降りてくるね」
ジークは明るい顔をこちらに向けてくれた。内心では傷付いていることが分かっているだけに、あたしもつらくなったが、表情には出さないようにつとめた。
あたしはエトの家でミートパイをご馳走になったし、ジークもグスタフ卿のところで昼食をたっぷり振舞われたとのことなので、夕食はパンとハム、チーズ、ピクルスを頼み、エールで晩酌することとした。ヴァリスではもっぱら昼食をたっぷり食べ、夕食は火を使わないもので簡単に済ますことが多いのだという。
夕食を取りながら、あたしたちは今日のそれぞれの行動を報告し合った。
ジークはグスタフ卿に無事に会うことが出来た。卿はジークが息災だったことを喜び、また仇討の上程も行ってくれるとのことだった。ただ、通常こうした手続きには長い時間がかかり、門前払いされることも多いという。それを聞いてジークはがっかりしたが、それでもフリードと同期の従騎士で、現在は聖騎士になった者たちも駆け付けてくれて、仇討を応援してくれたことは嬉しかったという。
あたしの方は、会いに行ったのがエトであることは伏せつつも、旧友が仇討に協力してくれることになったことを報告した。
もちろんジークは母親のリリに会いに行ったことは一言も言わなかった。
そして翌日以降の計画についても話し合った。あたしはここまで関わった以上、一月でも二月でも待って彼に協力するつもりだと言ったので、彼はとても喜んだ。しかしただ待っているだけでは時間がもったいない。仇討の前に、出来るだけ多くの敵の情報を収集しておく必要があるだろう。
「そこでね、あたしは明日、道場破りをしてこようと思うの」
「えっ……それは駄目だ! 危険すぎる」
「大丈夫! あたしは向こうに面が割れていないし、いざという時は精霊に助けてもらうわ」
「でも……」
心配しきりなジークを、あたしは強引に説き伏せた。
翌日の午前、あたしは王国剣術指南役のゲンザの屋敷を訪ねた。屋敷は城下の街中にあるが、そこそこの広さを構えており、剣術の道場も兼ねていた。ゲンザの道場には、従騎士や一般の兵士、あるいは市民の中にも、剣術の腕を磨くべく通う者が多くいるようで、その門弟は一〇〇人を下らないとのことだった。
「頼もーう!」
あたしはわざと時代がかった声色で呼びかけた。やがて屋敷の中から一人の男性が出てきたので、用件を申し伝えた。
「あたしは旅の剣士、ユリケンヌと申す者です。ヴァリス王国剣術指南役としてロードス島にも名高いゲンザ卿に、ぜひとも剣の指南を賜りたく、こうして参りました」
ゲンザの門弟とおぼしきその男性は、少し面倒くさそうな顔つきをして、こう答えた。
「旅の方、ゲンザ様は事前に約束された方か、紹介状をお持ちの方にしかお会いになりません。なにとぞお引き取りください」
門前払いされるであろうことは予想していたが、それでもなお食い下がった。
「いきなり最初からゲンザ卿にお目にかかるのは難しいことと存じております。せめて門弟の方にでも、お手合わせいただくことが出来ればと存じます」
あたしは片ひざをついてお辞儀をして、目の前の男性に頼み込んだ。太ももがわざと彼の目にとまるように視線誘導の小細工をしておいた。これで彼の下心を少しでも刺激することが出来たならしめたものである。
彼は少し困ったような表情を見せたが、
「しばし待たれよ」
と言って、いったん屋敷の中に入った。しばらくすると戻って来て、門弟との手合わせが許可されたとあたしに告げた。
「三本目!」
あたしの声が、板張りの床の広い道場に響いた。
あたしは、案内してくれた門弟を含めた三人の門弟たちと手合わせを行い、立て続けにそれぞれから一本を取った。道場にいる二十名ほどの門弟たちはどよめいている。
おそらく彼らにしてみれば、生意気な小娘を打ち負かして少しばかりいじめてやろうという魂胆だったのかもしれないが、まんまと目論見がはずれたわけだ。
「騒々しい。何事か?」
ふいに大きな声が響いた。見ると、髭をたくわえた五十代ほどの男性が道場に入ってきた。門弟たちはあわててその場で控えている。
どうやらこの男性こそ、王国剣術指南役のゲンザその人のようだ。
「お騒がせして申し訳ありません。あたしはユリケンヌと申す旅の剣士です。ヴァリス王国剣術指南役、ゲンザ様とお見受けしますが、よろしくお見知りおきいただければ幸いです」
あたしは慇懃に名乗りを上げた。ゲンザはしばらく黙ってあたしの様子を観察していたが、やがてニヤリと笑って言った。
「いかにも、それがしが当道場の主人、ゲンザである。我が門弟をかくも簡単に倒すとは、なかなかの腕前とお見受けする」
「ゲンザさま、たいへん失礼なお願いで恐縮なのですが、このあたしに稽古を付けていただけないでしょうか? ロードス島に名高いゲンザ様のご指導をたまわることが出来ましたら、この一介の剣士としては末代までの誇りとなりましょう」
ゲンザはしばらく思案していたが、もう一度ニヤリと笑って答えた。
「よかろう。面白い余興となりそうだ」
あたしとゲンザはそれぞれ竹刀を構えて向き合った。さすがに緊張感が他の門弟とはまったく違う。
まずはあたしから打ち込んだ。それをゲンザは軽々と受け止め、返す刀で竹刀を振るった。あたしはそれを受け止めたが、その打ち込みは本気のものというより、余裕を持たせたものであると感じた。
それから数度、剣を交えた。ゲンザの剣筋は、訓練に裏付けられた隙のないものであったが、数々の実戦の経験に基づいた、臨機応変な反応にも優れたものであった。
剣だけの勝負なら、相手の方に分があるな……あたしは戦いながらそう感じていた。
突然、ゲンザの動きに変化が現れた。俊敏な動きで、立て続けに仕掛けてきた。あたしはそれをうまくかわし続けたが、彼が勝負をつけにきていることが分かった。
何度かの連続した打ち込みの後、思っていたのと逆の方向から彼の剣が襲ってきた。足運びから予想した間合いとも違っていたので、一瞬しまったと思ったが、身体が自然と動いてその一撃を受け止めることが出来た。
あたしに生じた隙を突いて、ゲンザはさらに一撃を放ってきた。あたしはそれを見極めることが出来たが、もはやこれ以上深入りするのは危険と判断し、すり足を逆方向に用いて後ろに退いた。ゲンザの竹刀は宙を切ったが、かろうじてその先端があたしの右の腕を打った。あたしはそれ以上の追撃を避けるためさらに後退したところで、
「参りました!」
と大声で叫んだ。
ゲンザはあわよくば第二撃を放とうとしていたようだったが、あたしが間合いから離れたのでそれは果たせなかった。あきらめたのか、彼も竹刀を下げて姿勢を正し、
「勝負あった!」
と叫んだ。
ゲンザはあらためてあたしをじっくりと舐め回すように見ると、笑い声を上げて言った。
「そなた、なかなかの腕前であった。面白い! どうかな、我が道場の客分として、ここにしばらく滞在せぬか?」
あたしは思わぬ申し出に内心戸惑ったが、ここでむげに断るのもかえってあやしく見えると思ったので、せめて昼食だけはここでご馳走になることとした。
あたしは門弟たちに囲まれて、剣に関することや、これまでの旅の経験などについて、色々と質問を受けた。話してみると彼らの多くは気の良い若者たちで、あたしの話に熱心に耳を傾けて聞いていた。しかし彼らはジークの仇敵の門弟であり、近いうちに敵同士になってしまうことにひそかに心を痛めた。
結局、あたしが解放されたのは午後三時を回った頃だった。あたしはゲンザと門弟たちに丁重に礼を述べ、急ぎ足で宿に戻った。
宿に着くと落ち着かない様子のジークの出迎えを受けた。
「ユリ、あまりに帰りが遅いので心配したよ」
「ごめんなさい、ジーク。あたしは無事だったんだけど、なかなか解放してもらえなくて」
あたしは腕をまくって、右腕に残った打ち身の痕を見せた。
「ゲンザの腕前はしっかり見てきたわ。負けちゃったけどね」
ジークは心配そうな顔をしたが、あたしは笑顔で応えた。
「大丈夫よ!」
ジークは真面目な顔のままであたしに尋ねた。
「ユリ、正直な感想を聞かせてくれ。オレとゲンザが戦ったら、どちらに分がある?」
あたしは少し思案してから答えた。
「正直、剣の腕だけだったら五分五分といったところだと思うわ。ただ、ゲンザは実戦の経験も豊富なようで、変幻自在なところがあるから、その分は向こうに分があるかもしれないわ」
「そうか...…」
「大丈夫! そのためにあたしが敵の動きを見てきたんだから。敵の動きを知っていれば、対策も立てやすいでしょ」
そういうことで、明日から特訓を開始することにした。
そんなことをあたしたちが宿の一階のレストランで話しているところに、息を切らせて走ってきた男性が入ってきた。
「グスタフさん?」
ジークが応える。彼が組頭のグスタフ卿のようだ。
「ジーク、よく聞け。たった今、仇討の許可が下りたぞ!」
「えっ! 本当ですか?」
「つい先ほど、聖騎士団からの使いがあった。私も、まさかこんなに早く許可が下りるとは思わなかったよ」
「よかったわね、ジーク!」
あたしはジークの身体を抱きしめた。彼はまだ実感がないのか、戸惑ったような表情をしたままだった。
仇討の日はそれから五日後の祝日と決まった。場所はファリス神殿の参道。ジークの父親フリードが命を落とした因縁の場所である。
ジークの特訓は、グスタフ卿も協力してくれることとなった。配下の従騎士たちや、かつてのフリードの同僚だった聖騎士たちも協力してくれることとなり、彼の屋敷の中で訓練を行うこととなった。
あたしはゲンザの剣筋や動きを真似て、ジークと手合わせを繰り返した。
「ゲンザの剣は、それほどわざとらしくフェイントを使ったりしないんだけど、ふいに打ち込みのパターンを変えてくるので、そこを見極めるのが大事よ」
あたしは間合いを一定に保ちながらも、ときおりパターンを変えた打ち込みをするというのを繰り返した。ジークもその変化に徐々に慣れてきたようで、打ち込みを受け止めた後、返す刀で反撃するという動きがなめらかに出来るようになった。
仇討の当日はちょうどファリス神殿の祭礼のひとつが行われる祝日だった。神殿に向かう参道は幅が一〇〇メートルほどもあるので、仇討の会場は道の一部を区切って設けられた。一辺が二〇メートルほどの正方形に仕切られた場所が決闘を行う場所で、その周辺には見届け人が座る場所や、観客の場所が設けられた。
この仇討はヴァリス王国聖騎士団が公式に主催する行事となったので、神殿を背にした正面の場所には聖騎士団の騎士たちが着席した。その中心には現ヴァリス国王その人がいた。ヴァリス王国では国王は聖騎士団の中から選出されるのが慣例であり、国王は聖騎士団の最高司令官を兼ねているからだ。
国王から向かって左には、ゲンザとその見届け人たちが並んだ。ゲンザの見届け人のほとんどは門弟たちのようである。その人数は三〇人ほどだ。
それに相対するように、ジークとその見届け人たちが並んだ。見届け人はあたしと、グスタフ卿およびその配下の従騎士たち、さらにジークの父親フリードの同僚だった聖騎士たちだ。あたしが見届け人の席に着くと、ちょうど向かい合って座るゲンザと目が合った。彼はニヤッと笑った。まあこの数日の間に、あたしがジーク側の者であることはばれていたとは思うが。
関係者がみな着席し、準備が整ったところで、
「両者、前へ!」
と声がかかったので、ジークとゲンザは前に進み出た。
そこで国王が立ち上がって前に進み、開会の宣言を行った。
「古来この国では、戦士はおのれの正義をおのれの剣にかけて、それを証ししてきた。この勝負、どのような結果になろうとも、それは神が下した正義の裁定である。何人たりとも、それに異議をさしはさむことは許されぬ」
そして国王は手を上げて告げた。
「さあ、両人! おのれの剣にかけて答えを問え!」
その声を受けて二人は剣を構えた。
二人とも手にはバスタードソードを手にし、シールドや防具は付けていない。まさに剣だけの勝負である。
まずジークが仕掛けた。上段から打ち込むが、ゲンザはそれを軽々と受け流し、返す刀で中段から横なぎに剣を振るった。ジークもそれを危なげなく剣で受け止める。
しばらく二人の間で競り合いが続いた。その様子を見る限り、両者の剣の腕は拮抗しているように見えた。
そんな時、ゲンザの剣が変化した。その変化はあまりにも自然だったので、剣に覚えのある者であったとしても気付くのは難しかっただろう。あたしは一度、彼と剣を交えることが出来たのでそれに気付くことが出来た。あたしが気付けたということは、ジークも気付いたはずだ。
ジークはゲンザの剣を自分の剣で受けた。しかしその時、少し体勢を崩した。そこを見逃さず、ゲンザは続く一撃をジークに放った。
それをジークは見切ったように、軽く剣で受け流した。今度は逆にゲンザの方が、勢い余って体勢を崩した。そこをジークは見逃さず、バスタードソードを横なぎに払った。ゲンザの首が宙に舞った。
「勝負あった!」
国王が叫んだ。
ゲンザの見届け人の席にいた門弟たちが殺気だって立ち上がろうとしたが、国王の側に控えていた聖騎士たちも立ち上がり、それを無言の圧力で制した。
国王は続けた。
「シグルド、見事であった。正義はそなたの元にある」
観客たちは一斉に歓声を上げた。あたしはジークの元に駆け寄り、彼の身体を抱きしめた。
「ジーク! 無事で良かった。おめでとう!」
「ユリ、ありがとう。君のおかげだよ」
グスタフ卿たちが駆け寄って来たので、ジークは彼らにも丁寧に礼を述べた。いつしか多くの人たちがジークを囲み、彼が仇討の本懐を遂げたことを褒め称えた。
ふと、観客の席の方に目をやると、そこに見慣れた顔があることに気が付いた。丸眼鏡に白髪のおかっぱ頭の老人は、明らかにエトその人である。その隣にいる白い服を着た女性は、ジークの母親リリだった。あたしはエトに向かって微笑みながら、ウインクして合図した。
「エト、あなたのおかげよ。ありがとう」
「いやいや、僕はただファリスの信徒として、なすべきことをしただけだよ」
あたしはエトの部屋で紅茶とスコーンをいただきながら、おだやかな午後を過ごしていた。
昨日、神殿の参道で見事に仇討を果たしたジークは、母親のリリに本懐を遂げたことを報告しに行った。あらためて再会を果たした親子は、きっと夜通しつのる話を語り合ったことだろう。
日が明けて今日は朝から、ジークはグスタフ卿と共に王城に登城した。どうやらジークは従騎士として登用されることになるだろうとのことだった。
「あのジークという青年、面影がパーンに似ているよね」
「……ふふっ、だから肩入れしたくなったのかもね」
あたしはちょっと照れてそう答えた。
「パーンが亡くなって十年たつよね。ディードはあれからずっとあの家で一人で暮らしていたの?」
「そうよ」
「じゃあ今回はひさしぶりの外出だったんだ」
「うん、おかげでジークとも知り合えたし、こうしてエトを訪ねることも出来たのよね」
「ディードは、またこれから誰かと一緒になろうって、思ったことないの?」
エトはちょっといたずらっ子っぽい表情を浮かべながら言った。あたしは驚いて答えた。
「まさか! そんなこと、考えたこともなかったわ」
「うんうん、ディードらしいよね」
どうやらあたしはエトにからかわれたようだ。でもそのことについてあらためて考え始めていた。
パーンが先に逝くのを見送らなければならないことは、パーンを伴侶とすると決めた時から覚悟していたことだった。十年前、パーンが亡くなった後は大きな喪失感に見舞われたことは確かであったが、それもやがて時の流れが癒してくれた。でもだからといって、代わりに誰かを必要としたいとはまったく思わなかった。
そもそもパーンに出会った六十年前より以前は、あたしはほとんどの時を一人で過ごしていた。両親は今でも健在だが、会うのはそれこそ十年に一度、あるかないかという感じだ。そしてあたし自身がハイエルフの中でも変わり者なので、他のハイエルフたちと一緒に生活するなどとはまっぴらごめんという気持ちである。そのため一人で生きるのが自分の性に合っているようにも思っていた。
ところがこの数週間、ジークと一緒に旅を続ける中で、一人で過ごしていた時では得られなかった充実感を感じたのは確かだった。それはパーンやエトらと一緒に旅をしていた時に感じた高揚感と、似ているのかもしれない。
「じゃあね、エト。お元気でね」
「ディードも道中、気を付けて。スレインとレイリアさんにも、よろしくお伝えください」
あたしはエトの部屋をおいとますることとした。今日の夕方には、グスタフ卿の屋敷でジークの祝勝会が開かれることとなっているので、あたしは引き続きそちらに出席する予定だ。そして明日の朝には、ここロイドを発つ予定である。
翌朝、あたしは荷造りを済ませ、宿の一階に降りた。昨夜の祝勝会で少し飲み過ぎたようで、やや頭が痛かったが、このくらいなら歩いているうちにすっきりしてくるだろう。
一階ではジークが待っていてくれていた。ロイドを出立するあたしを見送るために、来てくれることになっていたのである。
「ジーク……どうしたの、その格好?」
あたしはジークの格好を見て驚いた。これまでと同じ、旅のいでたちだったからだ。
ジークはわざとかしこまった表情をして言った。
「私こと、本日付けでヴァリス王国の従騎士に任命されました。そして最初の任務として、「森の乙女」ディードリット卿をライデンまで護衛するよう、仰せつかりました」
「えっ……?」
戸惑うあたしをよそに、ジークは続けた。
「……というわけで、ユリ。これからもよろしく!」
ジークの屈託のない笑顔がまぶしく見えた。