たそがれのディードリット[プロローグ・旅立ち]
アラニアの王都であるアランの街は、ロードス島の北東に位置している。建国から五百年近い歴史を誇るこの国の都には、巧みな石工であるドワーフ族によって築かれた石造りの建物が立ち並んでいる。
かつて「帰らずの森」と呼ばれた森のほとりに営んだつつましい家で、あたしはこの六十年ほどを過ごしてきた。その間にも、ときおりロードス島の各地に出向いていくことはあったが、ちょうど十年前に伴侶であり最愛の人であったパーンが亡くなってからは、ほとんど外に出ることもなかった。ところが今回は、旧友のたっての願いということもあって、久方ぶりに重い腰を上げたのである。
あたしの家からアランの街までは、歩いて二日ほどの距離に過ぎないが、その雰囲気はまるで違っていた。さすがはロードス島で一、二を争う大都会である。しかもこの日はちょうど春の祭礼の時期にあたっていたようで、大通りには多くの露店が軒を連ね、大勢の人々が行き交っていた。道端では大道芸人が芸を披露したり、物乞いが小銭を無心したりしていた。
「そういえば、あの時もこんなお祭り騒ぎだったわね...…」
あたしは一人つぶやいた。そう、パーンと知り合ったのもこのアランの街だったのだ。そう思うと、あたしはしばし感傷にひたった。
今回は久しぶりの長旅になるので、旅の支度もしっかり整えてきた。かつての旅装束といえば、草色のチュニックに軽いレザーの鎧、そして愛用のレイピアが定番の装備であった。しかしこのいでたちだと今となっては目立ちすぎるという問題があった。それは、決してあたしの本意ではなかったが、ディードリットの名前がロードス島中に広く知れ渡ってしまったからであった。とりわけハイエルフは今ではロードス島でも非常に珍しい存在となってしまっていたため、このいかにもエルフ、という恰好は必要以上に人目を引いてしまい、無用なトラブルの種になってしまう可能性があった。
そこであたしは、頭にふんわりとした生地で出来た筒状のターバンキャップをかぶり、長い耳を帽子の中に隠してしまうことにした。髪の毛はポニーテイルにくくって帽子の上から外に出した。そして上にはオーバーサイズのアノラックを着て、下はカーゴパンツをはいて、いかにもエルフらしい細身の体型を隠すことにした。
そしてエルフの武器の代名詞ともいえるレイピアではなく、東洋の片刃の剣を携えることとした。慣れない武器にやや不安もあったが、念のため旅立つ前に少しだけ練習をしてみたところ、意外と身体になじむことがわかった。レイピアは主に突きを用いることから、前後方向への俊敏な動きを多用する身体の使い方となるが、東洋の剣は流れるような身体の動きが要求される。これがあたしの身体の使い方によくなじんだ。それに加えて、レイピアの突きがあくまで「点」によって相手にダメージを与えるのに対し、東洋の剣は切り裂く「線」となるので、より大きなダメージを与えることが出来る。その工夫として剣にはゆるやかなカーブがつけられていた。
この格好なら、小柄な東洋の戦士のふりをすることも十分可能だろうと、姿見を見ながらあたしは一人、悦に入った。しかし下にはいたカーゴパンツが、思いのほか脚運びを妨げることに気づいたのに加え、やはりあたしは生脚を出して皮膚にも十分な呼吸させてあげたい、という気持ちになったので、旅立つ前にカーゴパンツはやめてショートパンツにはき替えた。
「そんな動きじゃ、あたしに指一本触れることができないわよ」
あたしはそう叫んだ。その一方で、どうしてまたこんな事態になってしまったのかと、内心苦笑していた。
油断したのか、街の雑踏のなかで四人の男たちにからまれてしまったのだ。無視して立ち去ろうとしたのだが、男のうちの一人があたしの肩に手をかけて強引に引き寄せようとしたので、つい手が出てしまったのだ。
たちまちのうちに、つかみかかってくる男たちの足を引っかけたり、みぞおちに手刀を打ち込んだり、背中に蹴りを入れたりして、男たちを叩きのめしてしまった。もちろん相手を傷つけるための攻撃ではなく、あくまで戦意を失わさせるのが目的であったが、どうやら当てが外れて、男たちの怒りの火をあおってしまう結果になったようだった。
せっかく目立たない格好をしてきたのに、それを無駄にしてしまったことに、あたしは自分の不明を恥じた。二二〇年も生きてきたにしては、冷静沈着な態度にはまだまだほど遠いと反省した。
すると一人の別の男があたしたちの間に割って入った。あたしは反射的に足を払うような低い回し蹴りを見舞ったが、男は軽々とそれをかわして言った。
「違う! オレはあんたの味方だ」
男は敵意のないことを示すためか、両腕を大きく広げた。
あたしは油断なく男を観察し、その言葉が本当か見極めようとした。純朴そうな瞳があたしをまっすぐに見つめている。まだ若い男のようだ。
「悪い人間じゃなさそうね」
あたしはそう判断して、若者にウインクをして見せた。
だがそのとき、四人組のうちの一人が起き上がり、背後から突っ込んで来た。手には短剣が握られている。それに気づいたあたしは横にステップを踏んで突進を避けようとしたが、それより先に若者が背中に背負っていた長いバスタードソードを、鞘のついたままで振るった。それは男の短剣を吹き飛ばし、さらに男のあごのあたりをとらえたので、男はのけぞったまま地面に倒れた。
残る男たちが唖然としている間に、若者のバスタードソードは次々と彼らを叩きのめしていった。男たちは散り散りになって逃げていった。
「お嬢さん、大丈夫かい?」
若者はあたしに笑顔を向けて言った。あたしよりはるかに年下の若者に「お嬢さん」と言われたことに内心苦笑したが、それを気取られないように笑顔を作って返した。
「ありがとう。おかげで助かったわ」
若者はあたしが着ているようなアノラックの上着に、ワイドパンツをはいて、手には背中に背負っていたバスタードソードを持っていた。シールドは持っていないようだ。見た感じ、旅の傭兵といった風情である。以前は傭兵といえば全身を装甲でおおったプレートメールに加えてシールドを装備した重装スタイルが一般的であったが、最近は鎧を身に付けない軽装のスタイルが増えてきているようである。戦い方も時代とともに変化していく。かつての重装スタイルの時代には、鎧の継ぎ目や急所を狙うのに適したレイピアが有用だったが、軽装スタイルの現代では、服や柔らかい装甲を切り裂くことに適した東洋の剣が有用なので、この武器を持ってきたのは正解だったと改めて思った。
そして若者の顔をよく見ると、どことなく懐かしい雰囲気を感じた。そっくりというほどではなかったが、その面影はパーンによく似ていた。それもあって、あたしは彼のことを気に入ってしまった。
「オレの名はシグルド。傭兵だ。ただ、発音し難いのでみなジークと呼ぶ」
「あたしの名はユリケンヌ。あたしも旅の戦士よ。よろしくね、ジーク」
あたしは旅立つ前に決めておいた偽名を名乗った。そして彼と握手を交わした。
「ユリケンヌ、南の国の風の名前か……良い名だね」
ジークは微笑んだ。その表情をあたしは可愛いと思った。