エルゴード性の罠とスイッチ 【トッド・ローズ著 ハーバードの個性学入門】
私たちは日々「平均思考」に基づいて様々な意思決定を行っている。
では、なぜそう考えてしまうのだろうか?
暗に私たちが基づいてしまっている前提について今回は考えてみよう。
私たちが基づくエルゴード性
エルゴード性とは、確率過程において見ることのできる性質で、
「ある量の時間平均が集合平均と一致する」
という過程だ。
シンプルなことばで表現されているが、これだけを聞くと頭に即座に「?」が浮かぶ。ある量の時間平均が集合平均と一致するというのはどういうことなのだろうか?
カンタンに言うと「すべての情報源に個性はない」という前提なのだが、例から考えてみることとしよう。
例1:エルゴード性が保たれたサイコロ
ある人がイカサマのないサイコロを1000回ふったとき、1が出たのは、167回(≒1/6)。
よって、1が出る確率は1/6。
これが「時間平均」である。
そして、「集合平均」はというと、
まったく同じイカサマのないサイコロを1000個、同じ時間に振ったときに1が出る確率を求める、ということである。
現実問題として考えると、「同じイカサマのないサイコロを1000個、まったく同じ時間に振ることは不可能」
であるため、サイコロを振って1が出る確率を求めるには、「時間平均」を使って何度もトライした結果が、そのサイコロの「性能」であると判断するものだ。
では、これを人間に応用することを考えてみよう。
例2:エルゴード性が保たれた人間の能力
人間の能力にエルゴード性が保たれるというと、
まったく同じ人が1000人同じ時間に同じテストを受けることは不可能である。
よって、
ある人の能力を図るには、何度も同じテストをその人に受けさせ、その平均をとることが最もその人の能力を反映したデータだと言える、
という考え方だ。
しかし、これでは本当にその人の力を測ることはできない。なぜか、
それはその人の学習と発達という「変化」を考慮していないからだ。
では、次の例はどうだろうか?
例3:集団から個人を推測する
人間諸科学で行う方法として、集団の平均値を個人の平均値の予測に活用する、というものがある。
これは、どのような前提に基づいているかというと、まさにこの「エルゴード性」なのだ。
時間平均が集団平均に等しいならば、
集団の平均が個人の時間平均に等しい
という考え方を導くことができる。
しかし、この論の前提には誤っている点が2点ある。
(1)グループのすべてのメンバーが同一である。
(2)グループのすべてのメンバーが将来も同じである。
この2つだ。
(誤前提1)グループのすべてのメンバーが同一である。
このことにおいては、そもそも、同一ではありえない。
以前の記事でも紹介したとおり、腕の長さ、腹囲、身長など、すべてがピッタリ当てはまることなどありえない。
(誤前提2)グループのすべてのメンバーが将来も同じである。
こちらは、予測において重要な前提である。
将来もメンバーが同じであれば、同じ平均値を用いて予測をすることができるのだ。
しかし、これもまた同様に一人ひとりが異なる発達や学習をするため、覆される。
エルゴード性の成立しない中での個性学
著者らは、これらのエルゴード性が成立しない中で、人間諸科学を行う際に、「個性学」を提案している。
この個性学の根底には、
「平均値と比較して逸脱しているから個性的である、だから個性学である」
というものではなく、
「個々のパターンを発見してグループを集計することで、グループの特徴を掴む」
というアプローチだ。
新しい時代の人間科学は、
「平均で言い訳」をするのではなく、
「パターン分け」によって、
個性を重視した科学的探究に変化していくのではないだろうか。