「勇気を持ちたい仲間のあなた」を応援したい
初めまして、「自分のこころの話をするひと」太田智久です。
自分の本当に好きなことを仕事にする「勇気を持ちたい仲間のあなた」を応援する本を書きました。
好きなことで成し遂げたい夢・志はあるのだけれど、どうしてもそれを実行に移すあと一歩の勇気が持てないという方へお届けしたい本です。
初作は、私自身の「極端な自立体験記」です。
それは、日本語の全く通用しない場所へ行き、自分自身と向き合った体験(日本人は自分独りきりの環境下での20代米国留学)であり、そこでたくさんの失敗と恥をかくことを重ね、自分の弱さと闘いながら多くの人の助けを受けて最終的に旅行の専門学校を卒業するまでのお話です。
失敗すること・恥をかくことの大切さを仲間の皆さんに共感していただければ幸いです。
10代の頃の私は、両親や世間に依存し自分の軸がなく、常に己にとって楽な道を選択し続けていました。
大学卒業間際、このまま社会に出ても己に負け続け、自分はダメになると危機感を覚えます。そこで、その現状から脱却し自立することを目的に荒療治を欲し、日本語の通じない場所へ自分を放り込む決意をしたのです。
極端な体験でなければ自分を変えられないと信じたからです。
この体験で培うことができた「自信」、22年後に48歳で脱サラし独立する時の自分にとって非常に大きな「勇気」のもととなった私のこの「原点」の体験記が、仲間の皆さんの自立・独立の一助になればこんなに嬉しいことはないと思っています。
「好きなこと」は活力の源です。
どんなに困難な道でもやり続けることができます。それを困難だとも思わないでしょう。なぜなら好きだからです。
「好き」を仕事にして、自分がもっと元気になれば、その元気は周りにも伝播します。そして日本がもっと元気になります。私は、日本を「好き」で溢れさせたい、もっと元気にしたいと強く望んでいます。
今回は、その初作の紹介をいたします(noteの他投稿にて、あらすじ連載も実施中です)。
「勇気を持ちたい仲間」への応援歌
〜48歳で脱サラし独立する勇気のもととなった日本人独りきりの20代米国留学自立体験記〜
「勇気」を持って 本当に好きなことを仕事にしませんか
元気に まずは自分から。
安定・安心・安全な場所から出ろ。本能を呼び覚ませ。
強くなりたいなら 危険の中へ自分を放り込め!
それしかないです。
2作出版しています。よかったら読んでください。
気づきになればうれしい。
●あなたとともに心に火をつけ 日本を元気にしたい●
以下の概要(無料部分)をお読みいただき、この応援歌(拙著・有料部分)が一人でも多くの方のお役に立てれば幸いです。
22年間勤めた旅行会社を48歳で退職し独立
経歴としては、大学卒業(1年留年)後、23歳で渡米、2年の留学期間を経て旅行の専門学校を卒業します。
帰国後、「一人でも多くの日本人に海外を見ていただきたい。そのお手伝いがしたい」との思いを抱き、希望通り旅行会社に就職しました。
お客様へ「良い旅の提供」ができるよう、その時々の目の前の仕事に懸命に打ち込み、年月を重ね最終的に自分の本当に好きなことに出会うことができました(大分時間がかかってしまったのかもしれませんが)。
その自分の本当に好きなこと(心を文字にすること)で【志】を成し遂げたいと強く思ったのです。
【自分の本で、一人でも多くの人を元気にできたらいい。そして、日本をもっと元気にしたい!】と。
しかし、比較的安定しているサラリーマン生活に終止符を打ち48歳で独立するということは、自分にとっては非常に大きな勇気を必要としました。
最後の約3年間で大いに悩み、結果的に退職を決める要因となったのは、<両親の死>と<本当に好きなこととの出会い>の2点でした。
一人っ子である私は、自分が33歳のときに母、45歳のときに父を亡くし、「人生は有限である」ことを痛感します。
そして、入社以来、不器用ながら何とか自分の個性を発揮できるよう目の前の仕事にぶつかっていき、それらの仕事を通して「自分が本当に好きなこと」を発見できたのも丁度、父の他界の時期と重なります。
上司の勧めから社内イントラネット上に、「室長日記」(当時、お客様相談室勤務)としてお客様サービス向上への問題意識を共有するためや、営業統括リーダー(最後の時期)として、社員の仲間を叱咤激励するためのメッセージを発信したときに、「あれっ?これ、好きだ。俺は、自分の思い・心・感情を文字にして人に伝えることが好きだ。ちょっと、ワクワクする!」と気づいたのです。
正確に言えば、気づいたというよりは確実に認めたという感じです。子供の頃からずっとそうだったことが顕在意識となって現れた瞬間でした。
「これだ!これが自分らしさだ」と感じたのです。
「後半の人生、会社の看板を取っ払って、自分の名前で勝負したい。本当に好きなことで志を成し遂げたい!」と強く思うようになりました。
でも、本当に心底悩みました。インディーズ作家として生きる上での「不安」や「不安定」と自分は闘うことができるのか?
それで、家族を守れるのか?大企業のサラリーマンという安定を本当に差し出せるのか?
本は、定年後でも発表できる。それからでもいいのではないか?
しかし、やりたいという気持ちを抑えることはできませんでした。本当に好きなことを仕事にし、それを通して人のお役に立ちたいという思いを止めることは不可能でした。
あとは、ほんの少しの勇気が必要だったのです。
最終的に、その私の背中を押してくれたものは、アメリカ留学体験で培った自信でした。
英語で旅行の専門学校を卒業できたことは、私にとって偉業とも呼べるものでした。
アメリカでの日々の小さな成功体験が私の軸を作り、その後の日本での社会人生活を送る上での揺るぎない自信となったのです。
アメリカ人の中に日本人は自分一人だけという完全アウェー状態に己を放り込み、泣きながら何とか卒業できたあの経験が、22年後、私に独立を決める最後の一押しとしての勇気を与えてくれたのです。
アメリカ留学の目的は 「自立」
ここで振り返ることにすると、10代の頃の私は、自信がなく自分の軸というものが全くと言っていいほどない男でした。常に自分にとって楽な道を選択し、自分では大きな決断などできない有様でした。
両親に依存し、教育熱心な母の敷いてくれた安全なレールの上を歩くだけです。太平洋戦争経験者である厳格な父は大変怖く、見つからぬように若干の悪さはしましたが、大きく逸脱することなどできない中学・高校時代でした。
そのまま、大学に入り、授業に出ずに怠けていたため1年で留年します。そして、3年も終わる頃になり就職を意識した時に、いよいよ焦りを覚えたのです。
「このままでは俺はダメになる。
本当に、何一つ自分で決められず、楽で易しい道を選択し続ける人生を送ることになる。それは嫌だ! 」
「自分の弱さを克服したい。常に困難な道を選択できる男になりたい! 」
どうしたらいいんだと悩み苦しんだ揚げ句、出した答えは「日本人ゼロの環境下でのアメリカ留学」でした。
私がずっと分かっていたし、望んでもいたことは「荒療治」だったのです。「自分から動かねば誰も助けてはくれない場所へ己を放り込み、物事を自分で考え、自分で決め自力で歩くこと」が必要でした。
そして、それは極端な方法である必要もあったのです。
「日本国内ではダメだ、海外へ出よう。日本語が全く通用せず、日本人のいない場所へ行き、そこで結果を出して戻るんだ!」
場所は、小さな頃から憧れのあったアメリカ以外には考えられませんでした。
「大学卒業後は会社員生活」という安定路線を切望していた両親へ、勇気を振り絞って一大決心を打ち明け、留学の許可をもらいました(自分で勝手に、留学斡旋会社でローンを組み、帰国後に返済する予定で渡米しましたが、結局、両親が途中で解約をし大部分の費用を出してくれたのです)。
たくさんの失敗をし、たくさんの恥をかくことが目的
「①アメリカ人と住む、②何か結果を出す」という2点が、父との約束でした。
その約束を守るステップとなるよう、1年目はボストンの英語学校へ通います。しかし、うまくいきません。ルームメイトはアメリカ人なのですが、昼間はほとんど日本人と行動を共にし、生活のほとんどを日本語で過ごしてしまうのです。
現状打破の必要性を痛感しながらも、英語を恐れる自分の弱さに打ち勝つことができません。日本にいた頃のように、逃げ回っていました。
1年目の終わりに差し掛かり、焦りもピークを迎えます。
「旅行の専門学校を卒業し帰国する」ことを「出すべき結果」と定めますが、その勇気がありません。毎晩、深酒をし、二日酔いで英語学校を遅刻する日が増えます。
ある晩、最後は、いよいよ自室で一人号泣するのです。「日本に帰りたい」と泣くのです。泣き声を聞いたルームメイトが、心配しドアをノックします。
その後、私は彼に初めて自分の心の内を英語にして伝えるのです。拙い、しどろもどろの英語です。身振り手振りで真剣に伝えたのです。
「トモの言うとおり、どこか日本人のいない町の専門学校を探し、そこへ移るべきだよ。トモならできる。卒業できるよ! 」
翌日から色々と調べ、アリゾナ州のツーソンという町にある旅行の専門学校を見つけます。
現地で入学試験を受ける必要があるため、日本人の男友達を誘い、二人して車で大陸横断(東海岸のボストンから西海岸のロサンゼルスに向かい、帰路ツーソンで受験)することを決め実行します。夢でもあった往復約1万kmの「旅」でした。
結果、そのツーソンが、アメリカ2年目の生活の場となる
約3週間後、空港に降り立ち街中へ移動、モーテルに宿をとって家探しから開始しました。
一週間かけて、ようやく近隣の大学へ通う2名のアメリカ人男性とルームシェアできることになります。そこからアメリカ人しかいない専門学校へ通う私は、当然朝から晩まで日本人ゼロの環境に浸かります。
いきなりの完全アウェー状態の中、強烈な孤独感を覚えます。望んでいたこととはいえ、初めて受ける感覚でした。
日本語が通じないので、誰かに不安を打ち明けることができません。下を向きがちな毎日でしたが、弱気になっている場合でもありませんでした。その状態で日々を過ごさねばならないのです。そこでの人々とコミュニケーションを図らなければ、前に進めないのです。生きていけないのです。
必然でした。
日々30%の英語で済んだ1年目、今は100%です。下手とか不器用とか関係なし。話すのです、真剣に。伝えるのです、懸命に。英語で。
おかげさまで、1年目の何倍もの失敗をし、恥もかく
専門学校の授業では、講師の話す英語の意味が半分も理解できません。もちろん、クラスメートたち(白人・ヒスパニック・黒人・インディアン等)の冗談にも私一人だけが笑えません。
授業中、いつも天井を見ていました。無数の小さな穴を数えて過ごしたのです。なんとか自分が消えてしまわぬように。一つひとつ。
ある日、私は気づいてしまいます。
後ろの席に座る黒人女生徒が、講師の質問に答える私の話す英語を笑っているのです。「クスクス」。はっきり聞こえました。
その日以来、私は殻に閉じこもります。それまでより一層、本来の自分とは真逆である「無口な男」へと突き進みます。人々の前で笑われたくないからです。休み時間、大勢の生徒は中庭で寛ぎます。
私は、一人で座っていることが多かったのですが、一部のクラスメートたちはよく話しかけてくれました。しかし、恥をかくことを極端に恐れるようになった私は、会話を続けることができません。
途中で、トイレに行くと告げ個室に隠れました。次の授業の始まるまで。
週末、授業を終えると購入した中古軽トラックに乗り込み、町外れの丘の上へと走ります。
一刻も早く、現実逃避するために。中腹で山を背にして駐車し、今来た町並みを一望します。
小さくなった町の向こうには山々が立ち並び、その先には大空が果てしなく広がっています。最初、私はその自然を睨みつけます。
「苦しい」と心で訴えます。日本語が通じず(なぜかそう思っていました)、英語も上手くないのでここでも無言です。ただただ、ツーソンを見つめます。
一人きりの時間でした。そうすると、少しずつですが落ち着いて来ます。そして、感じるのです。大自然の中、自分がどれだけちっぽけな存在なのかと。
そして、知らされるのです。人間は、自然の中で生かされていると。私の弱気をお見通しであるその場所は、私の心を受け止め続けてくれます。最後には、私はその自然と一体となったような気がしてくるから不思議です。
「お前も、全てを受け止めろ。何でもない。何でもないよ。前へ進め」と勇気づけられているようでした。
そして、何とか元気を取り戻し、エンジンを掛け、再び来た道を「日常」へと向かい帰って行くのでした。
専門学校の計らいで、公共のカルチャースクールである無料の英語学校を紹介され、私は、夕方5時からそちらへも通います。
すると、ここが救いの場となったのです。
生徒は、メキシコ人、ロシア人、トルコ人、サウジアラビア人、コロンビア人、中国人、ベトナム人と多様で、もちろん日本人はいませんが、皆、母国語を英語としない「同士」です。安心できました。
私は、ここでは自分を解放できました。本来の自分でいることができ、友人もたくさん作り、幸運にもすぐにクラスの人気者になれたのです。
週末は、「丘の上の儀式」の後、英語学校の授業が終わると、皆でホームパーティーをしたり、ディスコに行ったりして飲み、踊り、歌い、騒ぎ遊びました。
上手くはない英語でしたが、心の底から溢れ出る「英語」でした。
家でも不思議な現象がありました。
二人の白人ルームメイトには心許せるのです。専門学校と同じアメリカ人であるのに、二人の話す英語は比較的理解できるのです。
私は、決して無口などではなく、二人の前では饒舌になります。小学校から帰り、母親に向かい1日の出来事を「武勇伝」にして喋り捲る子供のように、彼らを捕まえては話しかけていました。
もちろん、彼らは、私には平易な英語を用いてくれていたのでしょう。
それでも、昼間の専門学校で殻に閉じこもる日本からやって来た「無口な留学生」にとっては、夕方の英語学校、そして、ルームメイトのいるホームが心の居場所となり、自分の存在というものを強く認識させてくれたのです。
しかし、私は分かっていました。己のすべきは「専門学校の人々にこそ心を開くこと」だと。
勝手に越えられないと決めた壁を作り、専門学校の授業では、相変わらず無口に、なるべく話しかけられぬようじっとしていました。
それでも、英語漬けの生活に慣れを覚え、心が安定し始めたある時、授業中に講師からの問いかけに対し、無意識にルームメイトのよく使う英語を用い答えた時、あの黒人女生徒の吹き出す声を再度聞いてしまったのです。
「ウプッ!」
一週間の無断欠席
ある朝、ルームメイトに普段通りの挨拶を終えると、学校とは反対の方向へと車を走らせ、週末の丘よりもっと遠くの人里離れた山奥の道端に止め、午前中からジャックダニエルのボトルをラッパ飲みするのです。
酔って、車内で独り言を連発し、歌い、踊り、喚きます。最後は、車外に出て踊りました。
その後、酔い潰れて眠り、夕方目覚めると街へと戻り買い物を済ませ、何気ない顔でアパートに戻ります。
無断欠席でした。
一週間続いた逃避行。誰も知らない自分だけの現実逃避。逃げて、逃げて、逃げまくった日々。嫌気が差す己と二人きりで飲み、酔い、叫んだ日々。
「お前ら、言葉の通じない完全アウェー状態を前へと進んだことがあるのか?!
退路を絶って、不器用でも少しずつでも泣きそうになりながら前進したことがあるのかっ?!
俺は負けねえーぞ! 卒業してやる!
絶対にだ!」
全米中に、木霊しました。
そして最後の日、「これが俺だ。俺なんだ。これも俺なんだよ」と素直に受け入れることができていました。
日本の両親・友人の顔を思い浮かべながら。
山から降りることができる
少し胸を張り、顎を引き前を向いてクラスの席に座ることができていた私、夕方、専門学校を終えると、いつも通り英語学校へ向かい、その帰りスーパーマーケットで夕飯の買い物を済ませ家に戻り、ルームメイトとの団欒、そして、自室でのその日の授業録音テープで復習というルーティンを重ねて行きます。
もちろん、週末の丘の上での儀式とその後の英語学校仲間との酒宴も続けながら。
そして、いよいよ卒業試験の時期を迎えることとなります。
筆記とスピーチ。それが、試験の内容です。
しかし最後に来て、私はまた逃げてしまいます。スピーチが恐ろしくなったのです。
「また、笑われる。アメリカに来て2年、一度も帰らず走って来た。不器用だけどまっすぐに。
でも、このスピーチが上手くいかなければ、アメリカ生活すべてが否定されるのではないか。全部が無駄に終わるのでは......」
スピーチは一人30分。クラスメイト全員の前で「おすすめ観光地」について話します。「日本について15分」が私への課題でした。特別待遇は嫌でした。やるなら、アメリカ人と同等の条件でやりたい。
しかし、人前での英語スピーチは、この留学終盤にきて大きな壁となり私の前に立ちはだかったのです。
「日本は、島国で...」
連日、自分の部屋にこもりスピーチの内容について考えました。
何度もなんども書き直した用紙の山が、机の上に散乱します。「完璧な内容にしなければ......。もう絶対に笑われるのは嫌だ。卒業しなければ! 何としてでも」
本番を想定し、立ったままスピーチの練習をしますが、クラスメイトの顔、特にあの黒人女生徒の私の英語を嘲笑する声が頭の中で反響し、話すのが止まってしまいます。
恐怖で続けることができません。
「きっと、失敗するに決まっている! 練習しても無駄だ」
焦りと不安が渦巻く中、逃げることだけを考えました。何とか、スピーチをせずに済む方法はないものかと、真剣に理由探しを繰り返しました。
しかし、発表の日は刻一刻と近づいてくるのです。
とうとうやって来てしまったスピーチ前日、早くから部屋にこもった私。練習しません。したくないのです。明日を迎えたくないのです。
「自分にとって困難な道を選択できる男になる」、そのためにアメリカにやって来たのに、ここで「たくさんの失敗と恥をかくこと」が目的であったのに、最後の最後に、私は目の前の壁を乗り越える勇気を持てないのです。
嫌気が指しました。自分が大嫌いでした。
そして次の瞬間、私はある行動を取ってしまいます。「自分のルール」を破ってしまうのです。
留学終盤、最後の最後に来て破ってしまう自分ルールとは一体何か...(全63000字の書籍の中へ、よろしければお越しください! 私の他のnoteにてあらすじ連載も投稿中です!)
私は、「勇気というものは、己の弱さを受け入れる覚悟が自信を生み、その自信がもたらしてくれるもの」だと思います。
自分の欠点や弱さ、それらも本当の自分なのだと受け入れ、その自分ごと前へ進むことができた時に自信となり、己にとって困難な道を選択する勇気となるのだと信じます。
私は、応援したい。
自分の本当のほんとうの「夢を叶えるための勇気を持ちたい仲間」のみなさんを!人生は有限です。
お互いに、己の志を成し遂げるため勇気を持って夢に挑戦し続けませんか。
本当に自分の大好きなことを仕事にしませんか。お互いに、自分をもっと元気にして、「日本の元気」に貢献しませんか。
「私たちはできます!」
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