僕が話しておきたいひと
2023年12月9日は僕にとって忘れられない日になった。
感情をぐちゃぐちゃに掻き回された。
おかげで翌日はほぼ何も手につかず、実に生産性のない1日を過ごした。
翌日には少し気力が回復した。
さて、解決策を知らないだけかもしれないがこの行き場のない、息苦しさ、やるせなさをどうしようか。
そんな時にnoteを思い出した。
元々、noteはヘビーユーザーだしnoteに限らず文章は人並み以上には読んできた。文章はいい。伝わらないかもしれない不安を感じたら書き足せばいいから。
なんでここまで書いてこなかったのか、理由はシンプルだ。
めんどくさかった。
やらなくてはならない事に日々忙殺されていると自由に使える時間にエネルギーを使う活動に精を出す余力がない。
情けないと言われればそれまでだ。しかし、事実はその程度だった。
じゃあ、今更書き物をしはじめたのはなぜか。
これも簡単、必要に迫れれたからだ。
文章を書く必要が生じた。
そのタスクにはもっと直接的な方策が示されているが、書き物なんだからいいだろうと自分で自分に言い訳しつつ今noteを書いている。
動く理由があってタスク化が完了した物事に対して僕はめっぽう強い。
タスクとしてこれをやればいいという事に対しては職人のように集中してそれなりのクオリティを提供できる自信がある。
厄介なのは自分が納得する理由がないと動かないことだ。つまり気が乗るかどうかということだ。全くもって日本教育と主体性の悪いとこどりをした失敗例だ。
前置きが長くなった。
何が言いたいかと言えば、それも簡単。拙い文章だし、決して気持ちのいいnoteではないかもしれない。でも責めないでね。最近の若者は傷つきやすいから。
でも誠実に、本心だけで書くことは約束するよ。
ここまでの文章でも軸から逸れることは泣くなく割愛した。次の題材が見つかったぜ。
波の数が合う、元ネタを知っていればニヤニヤできるだろうし知らなくてもなんとなく理解できたりするのだろうか。
僕は寂しがり屋だ。人との交流を強く望む。
でも当たり前だが波長が合わない人とは関わりたくない。疲れる。
全く自分の世界に落とし込めない物事なのに心が動いてる演技をするなんて反吐が出る。でも人間社会をサバイブするためには必修だから意識的にやってしまうこともある。そんなんだから自己嫌悪を含めてそんなスタンスを誇らしげにとる奴らを軽蔑していた時期も長い。今は「自分を守るためにもそんなサバイバル方法もあるよな」と理解できるようになった。まあ、俺は自分の人生としてその方法は選ばないことを選択した。
そんな僕はある能力値のパラメーターでその人の価値が決まる世界を生きている。
普通に僕の肌に合わないし、生きづらい。だが幼き頃の僕が憧れを抱くには十分過ぎるほど輝かしく見える世界だし、実際とび込んでみてその輝きの土台にある汚さや理不尽さを体感してもなおその表面は輝いて見えると思っている。なんでそんなところにいるんだよとかそういった話は一旦おいておいて、そんな世界での生身の身体をヤスリで削られていくような経験の中で気づいた自分の価値観とこの先なんらかの形で必ず訪れる別れまでの間にめいいっぱい話しておこうと思えた縁を感じる社不の話がしたい。
わかりやすいことが大好きなこの世界には二項対立の構造は相性がいい。
勝ち組と負け組、陽キャと陰キャ、たりてるとたりてない、あっち側とこっち側
なんでこんな感じに世の中が回っているのかと調べてみれば、キリスト教のもとで自然科学が発展してきたからだそうだ。僕はこの世界の仕組みに納得はしていない。しかしこの世界だから進んだ文化もあるだろう。しかもほとんど全ての人類が長いこと受け入れやってきた。世界を変えようなんてはなから思ってないし客観的にみて不可能なこともわかる。だからこの世界の二項対立というシステムは納得せずとも理解してなんとかサバイブできる着地点を探していくスタイルでやってくつもりだ。
ここまで書けば察しもつくだろうが、僕の生きる世界は自分と他人に都合のいいところで線を引き区別する人間が多いように感じている。肌感でいえば人数比は8対2くらいだろうか。結構近い場所でこいつは使えるけどあいつは使い物にならないみたいな会話を耳にする。もうそういう目でしか人を見れなくなってしまった人もいる。そんな考えはもっぱらごめんだから僕はこの世界ではアウトローみたいなポジションをとっている。アウトローなんてカッコつけたがこの世界で僕は浮いている。
そんな世界で孤立していたら何人かの人が「俺はお前の気持ちがわかる」「俺とお前は似ているんだ」なんて話しかけてきてくれる人が現れた。
どうしてそんなことを言ってくれるのだろうか、俺は内省なんて肌感3割も終了してないぞ、当然自己嫌悪も強いし本当に似ていたら俺はお前のことも嫌いだぞなんて思っている。
二項対立に限らず境界線を設けてグルーピングをするなら数学で言う集合を構成する要素を明確にする必要が生じる。年末といえばM1なのでそれで言えば昨年優勝のウエストランドのあるなしクイズなんて要素の言語化のいい例だ。
このままではウエストランドの否定になってしまうので、ウエストランドはそれを理解した上で世間をおちょくるようにこのネタを作ったと(少なくとも僕はそう捉えて高く評価している)いうことを添えさせていただく。
話を戻そう。
陰キャ陽キャをグルーピングするときにそれを構成する要素はなんだろう。
一人で行動してたら陰キャなのだろうか。
飲み会が嫌いだったら陰キャなのだろうか
話すときに相手の目を見れなかったら陰キャなのだろうか
服のセンスがなかったらインキャなのだろうか。
僕はそもそもグルーピングが嫌いだからそうは思わない。しかし世界がそうだと明確な基準を決めてくれたらそれはそれで楽だ。
正直、周りにどうグルーピングされてもどうでもいい。勘違いしないでほしいがこれは人に迷惑かけていいなんて考えてるわけでもない。他人にどう思われてもいいと感じるのと他人と共存していたいという感情は同時に矛盾なく存在できる。
しかし厄介なことにその基準は明確ではない。いやはや何をもってあっち側なのか何を持ってこっち側なのだろうか。しかしまあ、グループでこのような単語で(表面上は)会話できているわけだしなんとなくの共通理解はあるのだろう。ちゃんと基準を作っといてくれれば、陰キャと呼ばれようがなんだろうが自分が反省して改善すべき部分がない限り知ったこっちゃないの精神でやっていけるのだから。
きっと彼らは僕の性質を説明する概念のうちいくつかをかぎ取り、自分の主観で解釈して僕を説明する要素の集合と自分を説明する要素の説明の共通項が主観的に大きいと感じて似てると言うのだろう。それを否定するつもりもない。自分と似たスタンスには当然安心感を覚えるから。なぜなら言動の予測が比較的容易にできるから。人間が予測不能なイレギュラーを嫌うのは心理学的にも証明されている。
一つだけ否定を入れさせてもらうとすれば思考や感情も含め彼らが僕のことを理解したと感じていることだ。
人は根本的には理解し合えない。
冷たい言い方かもしれないがこの概念は僕の根底にある。
まず、表情や仕草など非言語の部分だけで全てを説明できないという主張は共感してもられるだろうか。阿吽の呼吸なんて都合いい言葉もあるがそんな言葉に胡座をかいてる奴らは必ず破綻してきたし、本当に阿吽の呼吸の奴らは相手のことを慮って接しているしそれは根本で分かり合えるなんてはなから思っていないからだ。分かり合えないから丁寧に丁寧に触れる。しっかり確認し合うしちゃんと予想と別の反応への用意もしている。
次に話し合えばわかると言う主張への反論だ。
人は話し合おうが純度100%での人の思考に関する情報の共有は不可能だ。
なぜなら言葉は人が生み出した不完全で、だからこそ美しい発明だからだ。
人は誰でも自分の中に辞書を持っている。その中には人生で経験した全てをもってオリジナルの言葉の意味が記載されている。同じ単語でも僕の辞書に記載されている単語の意味とみんなの辞書に記載されている単語の意味は違う。物質としてこの世界に存在していればだいぶ違いは少ないかもしれないが、でも確かに違う。
これが概念的な言葉になったらもっと違う。
なんなら、同一人物であろうが毎日毎日、一瞬一瞬で更新され続けているのだから。そんな不完全なものでお互いの共有なんてできると思えるか。
勘違いしないでほしいが僕は言葉が好きだ。不完全だから好きだ。少ない言葉じゃやっていけないからたくさんの美しい言葉を生み出した。言語は文化を生み出し、文化は言語を多用にする。そして新たに生まれた言語がまた新たな文化を生み出す。雨が多い日本には雨を細かく表す言葉が他の言語より相対的に抜きん出て多い。素敵じゃないか。
ここからがこの文章で一番に言いたいことだ。
ああ、長かった。稚拙な文章を垂れ流してしまった。
俺はお前と似ている、俺はお前のことがわかると言ってなんになるのだろうか。
安心を感じれる。
仲間になれる。
自分の存在を補強できる。
なんだろう。自分勝手だよなあ。
無条件で自分のメリットであるみたいなことばっか思いつく。
そんなふうに自分を消費されるなんてまっぴらごめんだ。
そうやって他人を使って自分を補強してもつまらなそうだな。
君と似てるんでしょ、そんなん話してて何も新しい出会いってなさそうだね。
それより話してて意見が合わない方がよっぽど楽しいよ。
ここまでの文脈で伝えたけど頭ごなしに否定もしないしね。だってグルーピングしない人なら自分に落とし込めなかったらもっと詳しく聞こうとするから。
でもそうやっていろんな気持ちを考えて、いろんな価値観を味わって、そうやって過ごしてるとふとバチコーンって気持ちを100%共有共感できた気がする経験と人に出会う。あるひとは言った。人生は合う人に会う、それでいいんじゃないか。僕はこの瞬間こそ合う人に会うと言うことだと思っている。その瞬間は信じられないくらい気持ちいい。だからと言って別に何にもならないのにとても嬉しい。手放したくなくなる。
はたから見たら全然似てないのになんで一緒にいるのなんて思うんだろう。うるせえ。バチこんが気持ちよかったんよ。またバチこんの瞬間を一緒に味わいたいから一緒にいるんだよ。
僕が話しておきたいひとはそんなお前だよ。
波の数がたまたま合うだけ。チューニングというかザッピングしてたら凹みのある自分にぴったりハマる出っ張りが一つだけあった。今を逃せば僕の凹みかお前の出っ張りか、はたまたどっちもが変わっちまうかもしれないだろ。そんなの悲しすぎるだろ。だから話しておきたい。そこに運命なんて余計な文脈は載せない。載せさせない。価値観が噛み合わない方が多いから好きかと聞かれたら首をひねる。
それでいいじゃねえか。
楽しいからいいんだよ
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