職場の名前について
先日、所属している大学の名称について地裁で判決があったという。その内容云々については、特にここで書くつもりはない。
ただ、この件が世間を賑わしたときに、思ったのは「母校の名前が変わる」のと「所属大学名が変わる」のでは思い入れはずいぶんと違うだろうということだ。また、職員と教員でも異なるだろう。
旧名称の頃に、学内で書き溜めた学内向けのコラムを私家版として製本した。その「あとがき」に名称変更について、雑感を書いたが、その思いはいまのところ変わっていない。特に人目に触れていないので、今回、改めてここに掲載しようと思う。
2020年に所属している京都造形芸術大学が学校名を変更し、京都芸術大学となる。京造や、京都造形と略され親しまれていた名前が変わる。学生も教職員も、京造からの卒業である。ならばいい機会なので京都造形芸術大学でのコラムをまとめようと思った次第である。
在校生、卒業生、京都市民とさまざまなお考えがあることは仄聞している。学んでいる、もしくは学んでいた方からすれば学校名に愛着を持たれ、思うところもあるだろう。しかし、教員側からすると些か感覚は異なる。
分野や出身校の違いで、その感覚は更に分岐すると思う。こと関東の、それも芸術系大学の出身ではないものからすると、抑も、関心がない。他人事なのだ。
それは自身が、教わりたい師匠を選んで大学の門を叩き研究してきたので、大学がどこかは些末なこととしか感じられない。
また研究者とは例えると個人商店のようなもので、大学とはいわば廉売場である。呼んでもらえればそこに店(研究室なり講義。但し本学には研究室がないので、机と講義となろう)をだす。しかし(研究する)条件が良ければ、移ることを厭わない。こう書くと随分とドライに感じられるかも知れない。
ただ呼んでもらえた以上、愛着もあれば、いる以上はより良くしようと努力する。その一つがカリキュラムの充実であったり、科目内容の質を高めることだ。つまりは学生にはカリキュラムなり、授業内容なり、自身の研究をみて判断してもらいたいだけで、大学名はあまりというかまったく関係がない。そうしたことだ。大学名や職位にあぐらをかいた時点で研究者としては「あがり」である。そうした意識の差異が、学生、卒業生、職員とは違うかも知れないと改めて思った。
とはいえ、大学のブランディングだったり、学生募集などでも思案があるだろうし、改めて読み直して、学生に対してはこれでいいとしても、大学のある地域の方々や、他大学の方々の意識(愛着とか)は別であろう。
大学の名前が変わろうとも、一介の下っ端教員としては、授業や研究など変わらずにより良いものを目指すにつきる。