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昭和64年の風情

令和7年1月4日土曜日。朝7時45分に父の病院の順番取りで地元の病院へ。8時15分から受付開始で、webは45分から。それなら並んだほうが良かろうと来てみたら、すでに5人病院の前に並んでいた。朝からみなさんおつかれさまです。
固い霜がおりるほどの寒気の中、病院の向かいに立つ高校の校舎に上り始めの太陽がオレンジ色に映る。外に立って待ちながら本を読む。

時間が来て無事に受付を済ませて内科2番。よしよし。ご褒美にコンビニでチョコオールドファッションのドーナツとコーヒーを買って車で手早く片付け、サ高住にいる父を迎えに行く。

父は年末から熱が続いている。多発性骨髄腫という血液のがんを患っているが、もともと肺炎になりやすく、31日の受診では右の肺に軽い肺炎が見つかっていた。肺炎なら大きな病院に入院となるのがいつもの流れだが、血中酸素濃度が低くなっていないので抗生物質をもらって様子見、となっていた。

きょうの受診でも何度か酸素濃度を測ったが低くはない。「肺炎ではなく多発性骨髄腫瘍の熱かもしれませんね」と医者は言う。血液検査をして数値次第で大きな病院にきょう行くか、月曜に行くか判断することになった。
酸素濃度を測る機械をつける時、父の指は軽く震えている。

待合室でテレビ番組の「あの日のふるさと」が流れていた。昔の映像を当時の流行歌と流すミニ番組で、見ていたら「昭和64年」の走ろう会と初泳ぎだった。平成元年ではなく昭和64年。「昭和64年」の字幕に目が吸い寄せられる。昭和64年は1月7日の天皇崩御をもって7日間で終わり、平成元年になる。テレビの中の昭和64年は、16:9の横長ではなく4:3の画面で粗い。当時、昭和天皇のご病状は思わしくなく、いろんなものが自粛になったような気がしてたけど、走ろう会とか初泳ぎはやっていたんだな。

1989年、当時自分は田舎の私立中学に通っていて、男子校が翌年度から共学になることが決まっていた。一年遅く生まれていたら、と思ったが、女子が後輩にいようが同学年にいようがモテなかったのには多分変わりないだろう。
校章も変わることになっていたけど、当時世間を騒がせていたリクルート事件のリクルート社のマークみたいだな、というのが自分の感想だった。

陛下が崩御されて学校が休みになるかと思ったが、授業は平常通り。屋上の国旗と校旗は半旗になった。半旗というのを初めて見た。数学の担当でもあった老教頭に「学校を休みにしてチョーイを示すべきでは」と言ったら「君たちが勉強することこそが陛下の願いだろう」と丸めこまれた。

昭和64年の空気を思い出した。本年もよろしくお願い致します。

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