純ちゃんのこと
その人は同世代の人たちから純ちゃんと呼ばれていた。あまり接点がなかった頃は寡黙そうに見え、その人の部署にたまに用があっていくと、奥の机のぎょろっと遠慮ない視線を浴びせられ、一種近寄りがたい雰囲気があった。
その人が定年になるかならないかの頃、自分の部署の隣に異動してきた。かつて県庁や市町村の地位がある人たちを相手に仕事をしていたその人は、自治体向けの営業担当をしていた自分と組んで仕事をすることになった。
話してみると気さくで明るい人で、すぐに仲良くなった。一緒に北薩や大隅など車で3時間かかるような遠方にも営業に行った。自分が運転席に座り、純ちゃんが(さすがにそんな風には呼ばず苗字と肩書で読んでいたが)助手席に座る。かつて「ぬし」とまで呼ばれた仕事ぶりや、東京勤務時代に何もすることがないとよくデパートを覗きに行き、同業者から「デパ純」と呼ばれていたことなど話してくれた。笑い話や失敗談は遠慮なくげらげら笑って、仕事の話は運転中でメモできないけど胸に刻んでいた。
特に純ちゃんが大災害の時に息子さんにライトを持たせて自宅から現場にいった話や、バブル絶頂期の東京で「この土地の切手一枚の広さが何千万円」みたいなレポートのエピソードが好きで、「歴史に残る仕事ですねえ」と誉めると「そうけ?」と嬉しそうに言っていた。
自分は20代半ばだった。今考えたら純ちゃんとは30歳以上差があった。仕事の相談や、時には恋の悩みも打ち明けた。どんなアドバイスをされたかはよく覚えていないけど、ひとつ言われたことがあった。「君は仕事もまあできるし、もっと目立ったほうがいい。靴も茶色にして、車ももっといいのに乗りなさい」
そのころの自分は野暮ったい黒い革靴を履き、目立たないコンパクトカーに乗っていた。車は気に入っていたけど、左ドアには当て逃げされた跡もあって、悪い意味で目立っていた。「そんなものかなあ」と思ったが、大阪に旅行した時に茶色い靴を買った。車についてはちょうど買い替えを考え始めた時期でもあり、純ちゃんのひと言がきっかけで自分が持つ「自分のイメージ」と他人が思う「こいつってこんな感じの人」と真逆の車を選ぼうと思った。「若いのに落語が好きな真面目そうで面白みのないヤツ」から、イメージの脱却を図ろうと考えたのだった。モノに頼ってイメージを変えようという浅はかな作戦である。結局、「フランス製のオープンにもできる車。内装は赤い革」という車にしたのだが、「若いのに落語が好きな真面目そうで面白みのないヤツが、変わった車に乗っている」という……イメージは変わらずに「単にひとつ要素が追加された」だけだった。彼女もできなかった。それはさておき、変わった車に乗っていることでいろんな友達が全国にできた。
純ちゃんとした仕事で思い出深いのは、ある大きな自治体の企画コンペだ。それまで随意契約だったのが初めて数千万円規模のコンペになって、自分と純ちゃんがその担当になった。資料はほぼ自分で作り、純ちゃんはいくつか文章の言葉遣いにアドバイスをしてくれただけで「いいのができた」と喜んでくれた。もっと何かやってくれよ、と思わなくはなかったけど、それがこの人のキャラなのだ。大きなプレッシャーの中でプレゼンに臨んだのだが、純ちゃんも横に座っていてくれた。プレゼンは初だったけど、純ちゃんがいてくれることが心強かった。結果は圧勝だった。
純ちゃんが愛車の荷台に魚のえさをこぼして強烈なにおいが残った時は、一緒にカーショップまで脱臭剤を買いに行った。結局においはとれなかったけど。地方回りの時は、一緒に不似合いなオシャレカフェにも行った。小さな会議室で、純ちゃんが組織から期待される結果を出せず、契約満了で社を去ると告げられた時には泣いた。不遜だけど、相棒としてもっと自分が頑張れば良かった、守ってあげられなかったと思った。「難聴もあるし、ここらで潮時かと思う」というようなことを言ってくれた。
そこからたまに電話したり、しなかったりで、あっという間に年月が経った。年賀状のやりとりがメインだったけど、自分の披露宴には来てくれて祝ってくれた。最後は何年か前に薩摩焼の里でのイベントでばったり会って立ち話をしたときで、仕事について短く意見を言ってくれた。
2022年7月12日、夕方に忙しくしていると、誰かがA4の紙を持ってきた。社内でたまにまわる訃報連絡で、そこに純ちゃんの名前があった。純ちゃんと訃報が全く結びつかなかったから、てっきりご家族かと思って紙の中で目が泳いだが、喪主に奥さんの名前があって、故人に純ちゃんの名前があった。79歳。「マジで?マジかー、ええ?」という言葉しか出てこない。ショックを誰かと分かち合いたかったけど、職場はみんな若くなっていて、純ちゃんを直接知る人はいなかったし、1人だけいたけどとても忙しそうにしていたから遠慮した。一人でPCの前でおろおろしていた。
翌日通夜に行った。晩年は病気をしていたそうだ。遺影の純ちゃんは間違いなく自分の知っている笑顔の純ちゃんだったのだけど、棺の純ちゃんはとても痩せていた。もっといろんな話をしたかったなあ、会っておけば良かったなあ。手を合わせてありがとうございますとだけ言った。自分よりけっこう年上に見える息子さんは目元が純ちゃんそっくりで、「とても面倒を見てもらって、父親のように思っていました」と伝えたら涙目で頷いてくれた。
仕事ができて気さくで明るくて遊びが好きで、ちょっと抜けていて誰もがこうなりたいと思う先輩だった。会社生活終盤の相棒として一緒に仕事ができてうれしかったです。良き旅を。