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【ポッドキャスト#27】 サッカーを通じてどのように外国語を学んできたのか?長めの自己紹介も

今週はサッカーと言葉についての話をポッドキャストで




高校を卒業をしてきてから、サッカーを通じて言語を習得してきたように思う。主に学んだのは、イタリア語、スペイン語、英語。
語学を学ぶコツは?とよく聞かれるけれど、ひとつの正解の学び方なんてないと思う。

けれど、そうやって「コツを聞きたい」というあなたには自身が憧れる文化や生活が、海の向こう側にあるはすだ。そしてそこにアクセスしたいと願っている。その焦燥みたいな欲求や、好きという気持ちが続くのであれば、語学習得という面倒なものにいつか取り組み、続けることでその壁はクリアできる。

僕も、今でも語学がとても得意だと思っていない。

通訳のプロの方が隣にいると、あぁ今の表現とても上手だなぁと感心するし、病院で医学用語になれば辞書でたくさん調べることになる。けれども、コミュニケーションは取るという意味では外国でそれができている実感はある。

この記事をグーグルの検索で見つけて、この記事を読んでいる人は「サッカー好きで、語学を学びたい人」だろう。

日本語にはない世界に憧れを抱いた気持ちは本当だろうから、その気持ちはどうか大事にしてほしい。本日はここまで。下記は、余談である。


2020年に地元の浜松で活動を再開

浜松に戻ってきて、事業所登録をして1年が経過した。17年ぶりに地元に帰ってきて、浜松のノリに適応しようとしている自分もいる。具体的に言えば、「話すスピードを落とす」みたいなことかもしれない。徐々にそれにも慣れてきた。

ここ数ヶ月、新しく会う人が増えてきて、竹山さんが何をしてきてかわからないと聞かれることが多くなってきた。これまでどのようなことをしてきたか、どこで生きてきたのか?と。。

以前スポーツ系の海外大学などを紹介するウェブサイトに掲載させていただいたものがあるので、noteにも残しておきたい。

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自己紹介:竹山友陽(たけやま ともはる)


1985年生まれ、静岡県浜松市出身
・現在地:静岡県浜松市(2020年より)
・現職:サッカー選手対象オンラインサッカー英語(個人事業主)
・海外在住歴:12年(イタリア2年、メキシコ6ヶ月、イギリス9年)

静岡県はサッカーがとにかく盛んで

静岡県西部に位置する浜松は、県中部の清水、静岡、中西部の藤枝に負けたくないという指導者たちの熱い活動が行われていた。幼稚園から通い始めたのは、浜松で当時設立されたPJMヒューチャーズだった(サガン鳥栖の前身クラブ)。自前のグラウンドを持ち、そこにはJリーグが始まる前の読売クラブのカズやラモスが練習試合にやってきていた。

小学校に上がると、学区内にある当時強豪であったサッカー少年団に入った。4年生からは浜松JFCという選抜チームにも参加しキャプテン翼のように読売ランドでの日本一を目指した。結果は全国3位であったが、ベンチ外から応援をしていた。

小学校の高学年になると、少年団での活動は勝利至上主義の中で指導の厳しさを増していった。負けることは悪いことであり、勝っても殴られ走らされ、練習や試合で苦しむことで強くなると教わった。

少年団のチームの平日練習は夕方4時から6時まで、母親が作ってくれてたお弁当を食べて夜7時から9時までの選抜チームの次の会場に向かった。もちろん土日は試合であった。オフの日は雨が降った日だけ。この先にどんな喜びがあるのか?やめたら楽になるのかな?と風呂の中で考えて、疲れて湯船でよく寝ていた。怒られずにプレーをする方法をいつも探していて勝つために工夫することや、サッカーがうまくなっていく喜びを感じることは少なかった。



中学校に上がる前の春休み、地元でサッカークラブを運営している元プロサッカー選手の松原真也氏が企画した短期イタリア留学に参加した。ミラノ近郊で過ごした二週間でこれまで経験してきたサッカーの世界とは異なるものがあると知った。

お世辞にも立派なサッカー環境ではなかったが、スポーツはゲームであり楽しんでもいいのだととコーチとのやりとりで感じた。練習後はクラブハウスでシャワーを浴び、1日をリセットする時間があった、デルピエロやジダンがいたSerie Aはとても華やかで、ここに戻ってきたいと憧れを抱いて短い期間ではあったが初めて海の向こうでの経験をした。



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サッカー選手になるという夢は高校2年生の頃に限界を感じていた

後輩にジュビロのアカデミーから数人が入学してきてポジション争いに敗れた。進学校であったこともあり、友人たちは国立大学や早慶を目指して受験勉強を始めていた。高校一年時に、進路先にイタリアと書いた。担任の先生にかなり心配された。父親は元々中学校の教師であったが、風変わりでラテン人のように楽観的な人であった。

「人と違う道を進んでもいい」とイタリア留学先を探すことを丁寧に手伝ってくれた。人と違う選択をしようとしてる時に、家族の中に味方がいてくれたことは、とても恵まれた環境であったと思う。地方出身の方々が東京への憧れを抱くように、僕はイタリアのセリエAをいつもスカパー越しに眺めながら、いつかあちら側の世界で生きてみたいと願っていた。

高校卒業後は、ペルージャ外国人大学で2年間イタリア語を学んだ。ジュビロ磐田でドゥンガの通訳をされていた方が、イタリア語を学ぶならばとペルージャの大学を教えてくれた。当時はまだインターネットがそこまで浸透していなくて家探しや現地の情報も日本語ではなかなか見つけることはできなかった。 滞在一ヶ月目に記していたノートに書いていた単語は今でも鮮明に思い出すことができる。


大学のチームでプレーを続けながら、小さなサッカークラブのU-15でコーチのお手伝いを始めた。小さな現場であったが、イタリアサッカーの中には日本サッカーに足りないものが多く存在するということをクラブ代表のジャンパオロ氏とコーチの河村優氏はよく語っていた。数年後、二人はイタリア人のザッケローニ氏の日本代表監督への招聘に大きく貢献した。海外に出れば大きな仕事に巡り合えるというのは幻想である。ただ、どんなに小さな現場であっても結果を出すことで、次につながることを学んだ。

メシキコでの西川さんの言葉たち


イタリアから帰国後メキシコへ数ヶ月の間、留学。静岡市で日本閣という旅館を経営されていた故西川昭策さんに出会ったことがきっかけである。

メキシコのエンセナダという街には西川さんのご家族が移民されていて、西川さんの弟さんの家に居候をさせていただきスペイン語を学んだ。拙いスペイン語と覚えたてのトランプマジックを駆使しながら、様々なことにチャレンジした。地元クラブでの指導、貧困地域でのゴール設置活動、U-20メキシコ代表合宿の雑用など。

今思えば、そのスイッチを押してくれたのはメキシコ滞在数日後、静岡から一緒に移動してきた西川さんの振る舞いだった。「明日から頑張れよ。トモなら大丈夫だ。」とだけ言い残して帰国の途に就き、一人ポツンと取り残されてしまった。西川さんが、サッカー関係者の誰かを紹介してくれるだろうという見込みでいた自分の甘さに気付き、その日のうちにすぐに行動を始めた。海外に出ると、どうしても日本人コミュニティに頼りがちである。しかしながら、そこで得られることができるのは日本人コミュニティの知り合い程度のものである。

自分をさらけ出すことで繋がる関係性がある。 その後、メキシコ滞在期間中に出会った元メキシコ代表監督のチューチョラミレス氏が、トモ元気にしているか?マジックやってるか?仕事は順調か?と連絡をしてくれるのは西川さんの無言のスイッチのおかげであると感謝している。

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ロンドンにやり残したことがある

ロンドンでは、一からサッカークラブを友人三名とオーナーの方の力添えで立ち上げた。日系の家族の方々が多く住むアクトン地域で、日本と英国のブレンドさせた育成チームからスタートさせた。

10年後にトップチームまで作り、FA杯出場を目標に掲げて設立。近所の公園でプラスティックのゴールを組み上げるところからはじめた。3ヶ月で40名を集まることができなければ解散と決まっていた。資金に余裕もなく自分たちでできることは自分たちでやってきた。自前のピッチを作るために中古の人工芝を購入しハサミで切ってピッチを作り、素人の経営でボロがでることも多く、それで迷惑をかけてしまった人もたくさんいる。

チームは7年を経て、U-6からトップチームまで約200名までに増えた。日本人と英国人の割合を50:50にして地域に根差すことをミッションにして、経営メンバーにも当時サウサンプトンでプレーしていた吉田麻也がクラブアンバサダーとして加入してくれ、日本企業も活動に賛同してくれるようになった。 事業を成功させるためにサッカーに関するこ他事業も多くを手掛けようとした。留学事業、執筆、イベント、通訳、コーディネート、代理人、をなんでも自分の手でやろうとしてしまった。事業を増やしているにも関わらず、人を採用して育てることを怠っていた。

ビザ更新のために日本に帰国していた際に体調不良に陥ってしまい、体調が回復するまで日本で活動する現状を伝え、2020年から地元静岡で活動をしている。 現在はJリーグ選手を対象にしたオンラインサッカー英会話を10名ほどと個人契約をして、海外移籍をする前に言葉の壁を低くするためのサポートをしている。

自分で振り返ってみてストリートフードの店主のような生き方をしてきたなと思う。5つ星のレストランでしか味わえないもの、屋台にしか出せない味、その両方があっていい。自分が屋台家として生きるのであれば、地域に根づきながら、愛される店構えでありたい。

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