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「ニューシネマ」とはなにか?|第二章|作家主義 in ニュー・ハリウッド|その1|
「ニューヨーカー」に掲載された、ポーリン・ケイルによる『俺たちに明日はない』への称賛記事は、当時の批評家の意見を真二つに分けて論争となっていたこの映画を、ハリウッド製の「芸術作品」として広く認知させることに大きな役割を果たしました。
それは、その後続くことになる、ハリウッドに起こった新しい潮流(ニュー[・]シネマ、ニュー・ハリウッド、あるいはハリウッド・ルネサンス等々)のはじまりを告げる先触れともなったわけですが、実は、ケイルは当該記事のなかで、この作品の監督であるアーサー・ペンの能力をあまり評価していませんでした。そして、『俺たちに明日はない』による芸術的達成の功績は、演出よりもむしろ、脚本(や編集)等にある、と主張したのです(編集担当はデデ・アレン)。
ケイルは記事のなかで触れていませんが、原稿を書く前に、この作品の脚本家であるロバート・ベントンとデイヴィッド・ニューマンを食事に誘い、ふたりから製作過程や現場の状況についてくわしく話を聞いていたということがわかっています。のちにふたりは、ハリウッドにおける脚本家の不当ともいえる低い地位について嘆いていますし、発表された記事には、ふたりとの会話の内容に加えて、後述するケイルの持論も作用していたように思われますが、それにしても、かなり手厳しいものでした。
ペンの能力を認めようとしないケイルの論調に、ペンは、ショックを受けたと述懐しています。それは、たとえばこんな調子でした。
彼(※ペン)がコントロールを握っていて、下手で、気取った、めちゃくちゃな脚本で仕事をしていると何が起きるかは『ミッキー・ワン』を観れば、痛いほど明らかだ———最悪の意味での芸術映画である。(略)ペンは少々不器用で、むしろ凝りすぎる。映画に関して創造的であることと、芸術的であることにあまりにも関心がありすぎて、脚本をいつ信用してよいかわからないのだ。
『ミッキー・ワン』は、1965年にペンが監督し、『俺たちに明日はない』と同様に、ウォーレン・ベイティが主演したもので、ヌーヴェル(・)ヴァーグの強い影響を受けた作品です。ペンも推測しているように、ケイルは、いわゆる「作家主義」に対して懐疑的であったために、ペンに対して少々厳しい態度を取ったのだろうと思われます。
「作家主義」は、のちにヌーヴェル(・)ヴァーグの代表的な映画監督となる当時の批評家たちが、1950年ごろから「カイエ・デュ・シネマ」上で行った、あるキャンペーンに端を発しています。エリック・ロメールとクロード・シャブロルによるアルフレッド・ヒッチコックに関するモノグラフ『ヒッチコック』は、その代表的成果のひとつということになりますが、近年、邦訳されています。翻訳者のひとり、小河原あやは以下のように解説します。
ヌーヴェルヴァーグの批評家たちは、(略)映画は脚本に依拠して台詞や物語を中心に作られるのではなく、映像そのものによって構築され得るという認識を持っていた。(略)その上で彼らは、映像に監督の演出スタイルが刻み込まれた映画を支持し、(※アレクサンドル・)アストリュックに倣って、そうした演出を行う監督を「作家(auteur)」と呼んだ。
ロメール&シャブロル『ヒッチコック』の成立状況とその影響」より
(エリック・ロメール、クロード・シャブロル『ヒッチコック』
木村建哉・小河原あや訳、インスクリプト、2015年所収)
そして、下記のように続けています。
彼らはジャン・ルノワール、ロベルト・ロッセリーニ、オーソン・ウェルズ等々の「芸術」映画の監督に加えて、ヒッチコックや(※ハワード・)ホークスら「娯楽」映画の監督を称揚する文章を繰り返し著し、さらに「作家」本人にインタビューを行って、「作家主義[作家政策](politique des auteurs)という一大キャンペーンを展開した。
ロメールとシャブロルのみならず、フランソワ・トリュフォー、ジャン=リュック・ゴダール、ジャック・リヴェットらが特に熱心に賛美したのは、ヒッチコックやホークスといった、それまで一般には「芸術」と見なされることが少なかったハリウッド映画の監督たちでした(なかには、後年、もう作家主義な考え方はしていない、と語る監督もいましたが、それについては機会を改めます)。
その考えが、イギリスを経由して、アメリカへと入ってくるには少し時間がかかりました。それは「作家理論」と翻訳されて発展的な変化を遂げつつ、ようやくアメリカ国内に広がるのは、1960年代に入ってからのことになります。
「作家理論」あるいは「作家主義」をアメリカ国内に紹介した、その代表的な人物が、批評家のアンドリュー・サリスであり、また、監督たちについてのモノグラフを次々に著し、作家主義的態度を取る批評家・映画史家として知られていたのが、「カイエ」の批評家たち同様に、後に、映画監督としても成功することになるピーター・ボグダノヴィッチです。
前述のケイルは、ハリウッド映画には、監督=作家という考えはなじまないと主張し、サリスに対して反論し、「批評家」ボグダノヴィッチのことも大いに批判しました。
全面的な肯定ではなかったにせよ、ケイルの原稿によって、価値ある作品として認知されることとなった『俺たちに明日はない』だったわけですが、この作品が誕生するきっかけのひとつを作ったのは、意外なことに、ケイルが批判したボグダノヴィッチでした。
1960年代前半当時、ニューヨーク近代美術館(MoMA)において映画プログラミングを担当していたボグダノヴィッチは、もともと「エスクァイア」の、それぞれアート・ディレクターと編集者であった、ベントンとニューマンの知人でもありました。1963年、ボグダノヴィッチは、ヒッチコックの回顧上映を企画し、ふたりを招待します。
もともと重度のシネフィルであったベントンとニューマンは、この回顧上映(およびボグダノヴィッチが執筆したヒッチコックについてのモノグラフ)から映画に関する「教育」を受けたのだ、と述懐しています。1ヶ月以上にわたってMoMAのホールに通い詰め、サイレントから最新作に至るまでのヒッチコック作品を鑑賞して、すっかり信者になってしまったのだ、と。この回顧上映の終わりが近づくころには、自分たちも映画を作るしかない、という気分になっていた、とも語っています。
「ヒッチコック回顧上映」によって強い刺激を受けたベントンとニューマンでしたが、彼らもまた「作家主義」に憧れ、「作家映画」を作ろうと考えました。まったくの素人であった彼らは、周囲のアドバイスを受けて、まずは脚本を書いて売り込むことからはじめようと思い立ちます(のちにふたりとも監督を手がけています。特にベントンは、1979年の『クレイマー、クレイマー』によって、監督として大きな成功を収めることになります)。
よく知られているように、『俺たちに明日はない』の脚本は、「カイエ」における「作家政策」の攻撃的な書き手のひとりであり、その後、ヌーヴェル(・)ヴァーグの代表的な映画監督となった、フランソワ・トリュフォーの手に渡ります。
次回は、ふたりの脚本がいかにしてトリュフォーに渡り、ゴダールを経由して、ペンの手元へやってきたか、についてのエピソードを。その後は、『俺たちに明日はない』を離れて、ニュー・ハリウッドにおける「作家主義」の受容と展開について紹介したいと思っています。