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己の静を知る

七月の頭、京都は東区の東福寺大本山塔頭・勝林寺で写経と座禅体験をした。はじめての試み。

そめの家|京都・七条壬生川上ル

前日の夜はすてきな宿に泊まり、近くの小料理屋でシマアジに舌つづみを打った。今回の京都旅をともにした友人は刺身のなかでいちばんシマアジが好きだという情報を思わぬところで得た。

風呂から覗く小庭


翌朝、すっかりと自分のおうち化した宿でまったりと準備しつつ、勝林寺に到着したのは開門時刻の10分前。

想像していたよりもこじんまりとしたお寺なのねという印象で、華やかに彩られた花手水が火照っていたからだを優しく迎え入れてくれた。

事前に予約をしていたので滞りなく中へ案内される。通された部屋から見える景色がなんとまあ佳景なこと。まだ本番がはじまっていないというのに煩悩がひとつふたつと消えていく音がきこえる。

筆ペンを握ること自体もひさびさで正直一度も書いたことのない漢字も出てくるが、「今ここ」に集中して一字一句ていねいに書き写す。途中、まよい込んできた小虫やじんわり体を伝う汗に気を取られながらも、また、目の前の動作に戻っていく。1時間弱で書き上げた写経を眺めると、所々にあらわれるいびつな字が私自身の心の動きをあらわしているようでなんだか愛おしく感じた。

写経を終えたあと、お抹茶をいただいた


より、「今ここ」に集中する

そのままお堂に移動し、坐禅体験にうつる。敷かれた座布団はあっという間にいっぱいになった。そもそも禅とは、坐禅とはなにか、という話からはじまる。

禅とは?心の別名です。
ひとつの相にこだわらない無相。一処にとどまらない無住。ひとつの思いにかたよらない無念の心境を禅定と呼び、ほとけの心のことです。
(中略)
身体を落ちつけて動じない形に安定させ、心を一ヵ所に集中し定着させる。その身と心とを融合統一し、身心を一如に安定させるのが呼吸です。そこで身・息・心の統一調和をはかるのが「坐」だということになります。

勝林寺ホームページより

今回訪問したお寺は臨済宗であったため、壁面ではなく庭を正面にして坐禅を組んだ。
なぜ臨済宗がこのスタイルになったのか調べてみると、禅病(修行僧に多くみられた病で瞑想に集中することで過度の緊張状態がつづき、頭痛などの身体症状が現れるもの)の予防のためだったという説があるそう。

半跏趺坐を組み、右の手のひらの上に左の手のひらを乗せ、両手の親指を軽くつけて卵型の円をつくり法界定印をむすぶ。それから、1メートルくらい前方に視線を落として仏像と同じような半眼の状態をつくる。
その状態で15分×2回の坐禅体験。一から十を心の中で唱えながら呼吸に意識を向ける。邪魔してくる外的要素はほとんどないのに、途中で思考がひょっこり顔を出してきてそっちへ意識が向いてしまう。そんなときは焦らず、再度一からかぞえなおすことで「今ここ」に戻ってくる。

慣れてくると、眠たくはないのだけれど、眠りに落ちる直前のぼーっとした感覚が体に広がってきて、それがなんだか心地良かったことを覚えている。


自分に立ち返るということ


勝林寺を後にして、おのおのが感じたものを語り合いながら京都駅に戻り、「まったくもって煩悩だねえ」と言いながら腹ペコのおなかにかき込んだ牛タン定食はいつも以上に美味しく感じた。自分の内面に立ち返る時間をもったからこそ、こんなふうに味わえるものもあるのかもしれない。

京都での経験はいつもの日常に戻ってからも、自らのとっ散らかりがちな思考を静めるときに大いに役立っている。

『不生不滅・不垢不浄・不増不減』

生じることもなく、なくなることもない。けがれもせず、清らかでもない。増えることもなく、減ることもない。私に足りなかったのは、自分自身を空にすることで静かな心にいつでも還ってくることができる、という自信だったのかもしれない。

ちなみに友人は坐禅中、ぼんやりと見つめていた畳がエメラルドグリーンに輝き出したらしい。人によって異なる感覚をえられるのも面白い。また近いうちに京都に戻ってこようと思う。

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