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She sees the sea.

7月の半ばを過ぎた頃、私は京都への連続訪問記録を更新していた。最終的に四週連続、その締めとなったのが今回の京丹後ひとり旅である。

なぜにそないして京都に四週も

意図して毎週行っていたわけではなく気がついたら、がこの答えだ。
一週目はnoteにも投稿した写経・坐禅体験。

二週目はこのごろ個人的に熱を上げている作家さんの発刊記念イベント参加のため、京都は瑞泉寺へ。

三週目は京都祇園祭の山鉾巡行を見に。

そして四週目を飾ったのは、京丹後への一泊旅。
なにせ行くことを決めたのも出発の数日前で、「海、見たいなあ」という衝動から近場の海岸をリサーチ開始。せっかくだったら泳げる海がいいし水平線が見たい、なんなら海の見えるカフェで読書できたら最高じゃない?と、全ての要件をクリアしたのが京丹後の海だった。

目的地を決めてからは早いもので宿・高速バスを即座に手配し、あとは現地でのスケジュールを練りながらにやにやと出発の朝を待つだけ。調査からの検討、評価、決定に至るまでが我ながら誇れるスピード感。


海への道のり


唯一心配していたのは空模様だったが、そんな心配をものともしないピーカン晴れ。(ピーカンのピーって何からきてるんだろう)現地の予想最高気温は36℃です、とお天気アプリが教えてくれた。そこまでHO!サマー!を私は求めていないけれどもどうもありがとう。

宿は朝食のクチコミが軒並み高くみられたホテルに決めた。目的の海である夕日ヶ浦海岸へも丹後鉄道で2駅のところで利便性もよし。

旅先ではレンタサイクルに乗るのが定番になっているが、自転車の操縦には相変わらず苦手意識がある。これは小学生のころおぼつかない漕ぎ足で父親の背中を追いかけていた最中、狭いトンネル内で盛大にころけたときの恐怖心がいまだに拭えないことに由来する。にもかかわらずレンタサイクルの便利さにかまけて自転車で走ることをやめられないし、かといって上達の兆しも見えてこないのだが。

今回の相棒



登り坂では安全を考慮し、押して歩く。決して立ち漕ぎができないからではない。目指す海岸の最寄駅である夕日ヶ浦木津温泉駅から漕ぐこと約20分、磯の香りが鼻をつく。海が見えた。


海だ。


海だ。


どう足掻いても勝つことのできない圧倒的質量。
これだ、私が欲していたのは。
どれだけ干からびようとも、ここに来さえすれば全てを恵み、満ち満ちた状態にしてくれるであろう安心感。

私が半ば焦がれるよう海を求めたのは、楽しくも忙しなく過ぎていく日常の中で自分自身を絞りすぎたあまり、出涸らし状態になっていたことに薄々気づいていたからだろうか。

海で漂う昆布から出汁がでないのはなぜ?と頭の中のホワット・イフが囁いてくるなか、30分間脇目も振らずひたすら潮に浸る。海からあがった私の体を振ってみるとたぷん、たぷん、と聴こえてくるほどに満たされた。


日帰り温泉施設では大量の黄色いアヒルに襲われながら贅沢な時間を過ごし、海岸に戻る。名前に堂々とついているくらいには夕日が綺麗な海岸なのだろうけど、徐々に色を紅く染めながら沈みゆく陽を背にして戻りの丹波鉄道に乗った。夕日はまた別のどこかでいただくとしよう。


夜は宿の食事処で注文した芋焼酎をつかれきった身体の隅々まで行き渡らせ、それはもう気持ちのほどに四肢を放り投げての熟睡。楽しみにしていた朝食バイキングでは、実家の味付けによく似ていた肉じゃがを空っぽのお腹に詰め込んだ。


なぜ私は旅するのか


とことん己の欲と向き合った旅の帰り道、翌日の現実から目を背けたくなるかと思いきや、なんだかひとまわり大きくなった自分に気づく。海が恋しくなったらまたここへ戻ってきたらいいんだもんね、と甘やかせるくらいには総じて自分を満たすことのできた二日間だったんだな。


人からの評価に晒されるものではないはずなのにどこか自分の中で「この旅を充実させなければ」という気持ちを拭いきれないこともいまだに多い。しかし今回訪れた京丹後では、「今ここ」だけに心を置いている瞬間がいくつもあった。

海へ、海へと脚を回し続けているとき。穏やかな波の中で背泳ぎをしているとき。ワンマン電車を駅のホームで待っているとき。おいしいご飯に舌鼓を打っているとき。そのあいだ他人はおろか、自分からどう見られているかも気に留めることなく五感にまとわりつく感覚に集中していた。

日常生活では「今」に重きを置くだけでは乗り越えられない場面が多々ある。だからこそせめて日常からはみ出した旅の中では、「今ここ」を自分の掌中に取り戻していくのだ。そしてこれからも、今回得た手触りをたずさえてどこかへと足を運ぶ。


パノラマで海を一望できる窓を添えて

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