エッセイ|ロジカルシンキングの落とし穴
この世に正論などない。あるとするなら、それはぜい弱な常識とあいまいな良識の生んだ吹けば飛ぶようなタワゴトだ。
ロジカルハラスメントという言葉がひと昔前に流行ったが、これは正論ハラスメントでもある。論理的かつ倫理的に道理を説くことがあたかも正しいことのように認識される俗世への反逆が、この概念を生んだ。
人間はロジカルにできてはいない。シロかクロかではなく、そのあいだに混在するどちらでもないものをもっと大切にせねばなるまい。
ロジカルシンキングとは単なる思考法であり、ただのツールだ。論理的であることこそが正しいと盲信する人はたくさんいるけれど、そもそもロジカルシンキングには穴がある。アキレスと亀などに代表される数学的なパラドックス、つまりムジュンだ。
これに限らず、論理的に導きだした答えが、人間の直感的に誤っていることは多い。
簡単な例としては
「A=BでB=CならばA=Cである」
というものがある。
ぼく=人間で
人間=新垣結衣ならば
ぼく=新垣結衣である
という論理が成り立つ。んなわけあるか。ぼくだってガッキーになりたいけれど、ぼくはぼくであってガッキーではない。その昔、ポッキーのCMで一目見たときからファンでした。
閑話休題。
もちろん、そのムジュンを論理的思考を用いてちゃんと解消できることもまた事実だけれども、ぼくたちのようなノータリンが現実に起こる身近なムジュンにそこまで思考を及ばせているかは甚だ疑問だ。
突きつめた論理の先にひそむムジュンをさらに突きつめるのは、もはや哲学の話だ。上辺のロジカルシンキングを盲信する人々ならば、そのムジュンから目を背けることを「ロジカルで効率的だ」と思うことだろう。もはやなにもかもがムジュンしている。
しかし、これは仕方のないことで、しつこいようだが、人間はロジカルにできてはいない。すこしの不安で情緒を揺らし、ひとさじの希望にすがりつき、いまを常に生きている。
身体を壊すとわかっていながら、タバコと酒はやめられない。不幸になるとわかっていながら、ろくでなしを愛してしまう。ばかばかしい。ナンセンス。あまりにも非論理的。ロジカルもへったくれもない。しかし、それこそが人間だ。人間は人間らしく、シロとクロのアイの子を愛でてゆくべきなのだ。
ロジカルであろうとすることが人間として生きる上での大きなムジュンであり、その大きなムジュンを受け入れ、抱きしめてやることが、もっとも人間らしいのだと、ぼくは確信している。
この確信は絶対ではない。しかし、それでもぼくは確信している。この世に蔓延るムジュンを、ぼくは愛している。
あと、結婚おめでとう。ガッキー。
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