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親ガチャに ピンと来たなら 恥じるべき
親ガチャは存在する。
脳死で否定されるのはおかしい。
貧しい生まれの人が成功したからといって、背負ったハンディキャップの事実は変わらない。金持ちが没落したからといって、環境に恵まれていた事実は変わらない。
ただし、事実だからといって賛同を得られるとは限らない。
なぜなら、カッコ悪いからである。
カッコよさは事実に勝る。聞こえのよい言葉に人は惹かれる。貧乏人が鬱々と真実を語ったところで、カッコ悪くてだれも聞く耳は持たないのだ。
「カッコ悪くたっていいんだよ」なんて戯言を平気で口走る痴れ者は、本当によく考えて発言してほしい。カッコ悪いとされる言動に一寸でも好意的な感情を抱いたのなら、それは「カッコ悪さに擬態したカッコよさ」なのだ。本当のカッコ悪さではない。
繰り返すが、親ガチャは存在する。それを糾弾し、自らの生きた軌跡をそのまま両親におっ被せる行為は、たとえ真実であったとしても純度100%の「カッコ悪さ」なのである。共感はあっても、賛辞はない。
そんな行為が当然世間で許されるはずもなく、真実は真実のまま正しくないとされる。
どう足掻いても無理なのだ。詰みである。紡いだ言葉は霧散する。届かない。届くのは、同じく詰んでいる同属たちである。なお詰んでいる。
それより脱却するためには、キズを舐め合うことをせず、自らを見下し踏みにじり、底なし沼の底を生み出すところから始まる。
なんとか這い上がった先で、泥だらけの見窄らしい自分を認め、蔑まれ笑われながら、それでも前進する。その先に成功が約束されているわけでもないのに。
そんなこと、できるか?
ぼくにはできない。
ただ、これをするしかない。
できないことを、するしかない。
できないことをする。ムジュンだらけだが、するしかない。できればムジュンではなくなる。
クダを巻いているヒマはない。
が、ぼくは進めないだろう。
だって、カッコ悪いほうがラクなのだから。
露悪的なナルシズム、凹んだ人間性への共感。そこに賞賛はなく、人々より注ぐ憐れみの眼差しに気づくことはできない。
賞賛と憧れ。ノドから手が出るほど欲しい、カッコよいものに共通する概念。
それを手にしているものは皆、親ガチャなんて言葉をここまで深く考えてはいない。というより、考える必要なんてないのだ。
だって、そのほうがカッコいいのだから。
ぼくはカッコよくなりたい。しかし、そうなるための努力はしたくない。その心意気がカッコ悪い。それをクドクド文章にしたためている現状もカッコ悪い。
どうにもならぬ。
得た共感は力にもならぬ。
そんなことを大真面目に吐き散らすぼくを、認められない世の中はカッコいい。
ああ、恥ずかしい恥ずかしい。