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書かずに生きていられるのは、幸せだ。

最近、書くものがない。云うなれば、執筆欲がない。

ぼくを含めた執筆する人々の原動力は、感情にある。現実より齎されたものごとにより、湧いて出たその感情を言葉の羅列へと昇華する。ものごとはあまりに千差万別で、それにより湧いた感情もまた然りであるため、その感情がどんなものであるかをここで言語化することはしない。なぜなら、あなたの綴った文章のそれを示したほうが的確だからだ。

ちなみに、感情のベクトルが違うのみで、やっていることは他のSNSとなんら変わりはない。感情を画像で誇示するものがInstagramならば、文章、それも長文で誇示するものがnote、対して短文で誇示するものがTwitterである。

これらのサービスは、感情を源とした人間の自己顕示欲によって繁栄を極めたものである。凡ゆる感情を自分の中で処理しきれず、他者との共感を求めた結果である。それは自己表現の一つであり、極めて人間らしい愚行であるが、ぼくは非常に好ましく思っている。

執筆欲がない、つまり今のぼくには執筆の源である感情がない。しかしそれは、ぼく自身の感情自体が失われたことを意味しない。ぼくは感情を失ってなどいない。日々、現実のものごとによって湧き立つ感情に揺さぶられている。

今のぼくは、その凡ゆる感情を処理する手段を見つける、小賢しさを覚えてしまった。

先に述べたように、人間が自己顕示に及ぶ因は凡ゆる感情の処理が間に合わず、他者との共感を求めることにある。とどのつまり、それを自らで処理できるのならば、自己顕示欲など湧きようもないのだ。

感情を処理するには、娯楽を用いることがもっとも簡単である。現代は娯楽に溢れている。酒タバコギャンブルといった古典的なものや、YouTubeやNetflixなどを始めとする動画、無料で読める漫画アプリ、ソーシャルゲームなど、己に湧いた感情を簡単に処理するための媒体でいっぱいだ。

それらを用いたぼくは、思考を停止することの愉快さを知ってしまった。

これまでのぼくは、常に抱いてきた世の中への漠然とした疑念を晴らそうと、思考を凝らしたのちに、また新たな疑念が胸中を支配するそのイタチごっこをくり返すことで、なんとか息をしていられる気がしていたのだ。そんなザマをなにをとち狂ったのか、公然の場に晒してみたくなったのだ。それは共感を得たかったが故の、陳腐な自己顕示欲だった。

そんなものは、全てパズドラで消し飛んだ。

ガチャを引いて、珍しいモンスターを手に入れたときの高揚感。敷かれたレールに絶妙な塩梅で跋扈する障害を乗り越えてゆく達成感。これが、指先一つで叶うのだ。現実という曖昧な世界を暗中模索する恐怖と向き合う必要なんか、これっぽっちもなかったのだ。

(ここで、筆が止まった。先の言葉を捻出し、紡いで綴り、書き上げることも考えたが、その他多くの娯楽と比べ、ぼくにとっての魅力を著しく欠いている執筆という行為への情熱を保ちきることはできぬ。よって、このまま投稿することとした)

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