「快・適」だけではない「不快」の価値
3年前に、こちらのページで【快・適】という記事を書きました。
それぞれの体の声を聴いて、快いポイントを探し、そのうえで適度をわきまえる、そんな心がけの提案のような内容だったのですが。
最近、イタリア文化にはまるきっかけがあり、ヘルスケア、という文脈だけで生活を埋め尽くさなくなりました。
文化に寄り添う楽しさの魅力に取りつかれてしまいました。
そんな中、個人的な話ですが、ちょっと正念場を迎えるようなヒヤヒヤした時間を昨年末くらいから過ごしており、その中でふと気づいたことがありました。
【快・適】、とは言いましたが、実は不快にも価値があることが見えだしました。
これはヘルスケアにも言えますが、ウェルビーイングにもつながると思っています。
不快とは、ここでは、焦り、という不愉快な感情についてです。
焦りや不安などは、一般的には嫌がられる、不快な感情で、これをいかに味合わずに済むかという方にフォーカスされがちですが、一つ気付きました。
リスクに伴う焦りは排除してはいけない。
それは、リスクに伴う焦りは正常な危険信号だからです。
危険を知らせているのに、排除してしまえば、それは自ら危険に飛び込んでいくのと同じ行為だと改めて思いました。
それを承知で、それでも得たい何かがあるならば、あえて飛び込むという事もあるかもしれない。
でも、そうでなければ、焦りは味わい、向き合うしかないと思っています。
焦りにどっぷりつかり支配されるとパニックになってしまいますが、
危機を乗り越えるには、焦りを起点に、うまく前向きに活用して、好転させるしかないと思います。
もう少し言うと、このような状況は見るものによっては不幸、と捉えられることもあるかと思います。
しかし、不幸は確かに嫌ですが、不幸は学びの機会なので、排除してはいけないのではと思います。
自分になかった器を大きくする時、痛み無くして器を大きくするような成長はありません。
その時に大事なのは、長い間不幸に甘んじずに、抜け出すきっかけや方法論は必要とされること。
不幸と向き合うという大事な学びまで排除してはならない。
今は資本主義で世界が動いているので、エネルギーを生み出す方に気を取られ錯覚しがちですが、
競争下にあるなどの一部の例外を除き、人生をポジティブな時間ばかりで埋め尽くせば良いわけではないと思っています。
人生は波。生き物はすべてバイオリズムで成り立っている法則は無視してはならない気がしています。
不快感情も味わい尽くす、そんな境地が垣間見えました。