反応するということについて-改めて、why?という視点で考える-

何だか解せないもやもやしたことが起こることがある。
一見正しく見えるけど…何かが解せない。

例えば、ある事件のこととしよう。

世の中で、多くは罪を犯した人は悪人と言われる。

罪の行為は、その人にとっての利益というものによって駆り立てられる。


でも本当にその人は「悪人」なんだろうか。

罪を憎んで人を憎まず、ということわざの意味。

例えば極端な話、世の中には冤罪やでっちあげ、というものがあるのに、
情報の上では、みんな表面的なことで荒れ狂って、反応しまくっている。
全部自分のことじゃないのに。

反応過剰表面化社会だなあ、と感じる。

全体的に情報が過多なのは間違いなく、
15年前の情報量と比較し現代は、400倍にも及び、
現代の1日分の情報量は江戸時代の1年分、平安時代の一生分とのことだ。

情報に対し、横行するありとあらゆるコメントは、全部その人のその時の価値観(に基づいた感情)が如実に表れている。ただそれだけの事実。

そして本当に価値観は存在する人の数以上にあるのではないかと感じる。

違和感を感じる話(情報)への反応は、反応する前に、改めて様々なwhy?の視点で自分の中でみつめなおしてからでも遅くはないだろう。

自分の潜在意識を言語化することに注力し、意見はきちんと言おうと個人的に言ってきている拙者だが、

場合によっては、全く反応しない、という事が、沈黙は金、に値することもあるかもしれない。


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