私という人の出来上がりかた~その3
父という人
この人は私の人生に影をおとした。悪い人ではない。只のピーターパン。
祖母が18才で父を生んでいる。祖父が24才。
助産師学校へいく祖母、幼い父。祖母が帰ってくると近所の食堂で勝手に注文した食べ物を食べていて、支払いが大変だったらしい。この頃からお金をよく使う子だったと祖母が呟いていた😅愛情をお金で確認するタイプ?らしい。
しばらく大阪で育つが、鹿児島出身の祖祖父は末っ子だったが、男子が一人と言うことで、親を観て家を継ぐ?為に帰鹿した。子供ながらに父は帰りたくなくて祖母の実家に逃げたらしい。
元々勤勉な方ではない上に戦争が始まり、真面に教育は受けていない。おおらかな田舎の学校。サボっては山に入っていたようだ。それでも旧制中学へは行った。祖父母とも学校は行くようにと4人とも高校を出ている。
次男は阪大中退し企業へ、三男は実業系高校で資格を取り電気系の大手で定年まで勤めあげ、末の長女は商業科で簿記、そろばん等1級を取り大手の銀行へ。父のみが頭痛のたねだった。
放蕩息子は19才でバツイチ女児連れの最初の妻と結婚し、鹿児島で姉が誕生した。商売などをするが、結局借金を作り離婚し、姉を実家に預けて一人大阪に出た。もちろん借金は祖母が返済した。これから後も借金を作っては祖母や後で出てくる継母、姉が返している。私は幼くてよかったぁ~
大阪で胆嚢を悪くして入院し、母と出会う。紹介らしいが、実は母の友人の方が好みだったと母の死後に判明🍀
大阪ではしっかり仕事はしていた?らしい。帰鹿していくつか勤めるが長続きしない。私にとって恵まれたのは書店に勤めていた父のお陰で見本に持ち歩いていた本を分けてもらってきてくれていたこと。世界も日本も偉人伝は入学前に読み終わり、ヘルマンヘッセなどの洋書にも早くから囲まれていた。
まぁまぁ頭のいい子だった(笑)
その後祖父と共に養豚業を始める。いい時代だたのもつかの間。豚一頭の価格が輸入の規制緩和で急激に下がる。
タイミング悪く母はステージ4の乳ガンを発症。医療の問題もあり、実家のある広島市民病院で手術、療養をする。多額の借金を抱え、翌年から父は名古屋に出稼ぎに出る。トヨタの工場だった。
そんなこんなで、私が小学校入学と同時に養育の主体は祖父母となる。
この辺りから父との心の距離はあるが、その後母は再発し小学5年の秋帰らぬ人となる。
それから1年余りで継母との再婚を期に私と父の心の距離は埋められないものになる。
父から恩着せがましく言われたくなくて、高校も奨学資金で、大学は周囲からも勧められたが、確実に稼げる今の資格を格安で取れる学校へ滑り込み、病院奨学生とバイトで乗りきった。が、「お前の学資の工面が大変だった」と言われたときには怒鳴り返した。
このままだといつか私から縁を切るかもしれないと思うような感情が溢れた。
結局、84才まで誰よりも長生きしてこの世を去った。
この父の影で結婚してしばらく経つまで、ロールシャッハテストで父親のカードはブロックされていた。実習生の時に受けて焦ったが、カードの意味を聞いて納得した。父としての存在を私は切り捨てていた。冷たい感情だが、自分の存在を維持するために出した結論だ。
後に書くが、結局父親と類似した夫と結婚してしまった。そんなものなんだろうか⁉️
続く