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道徳で叱るより、原則を教える。

「お友達とは仲良くしようね」

と、よく耳にします。
まあ、そりゃみんなが仲良くできたらいいのかもしれないなぁとも思うのですが、「お友達」と「仲良く」できなかった過去をたっぷり持つ身としては違和感を感じたりもするのです。

そもそも「仲がいい」から「お友達」なのであって、仲が良くないのならお友達ではないんじゃないか? などとひねくれたことを思ったり。

それはさておき、よく耳にするシーンとしては子育てひろばなど、いろんな子どもたちが集まる場。

以前、広場で娘とお友達が遊んでいたときのこと。
娘が使っていた人形のおもちゃを、お友達が「これ貸して!」とサッと取り上げてしまいました。

そこに怒涛の勢いで駆けつけてきたその子のお母さん。

「ほら! お友達とは仲良くしなきゃダメでしょ!」

とおもちゃを娘に返してくれようとします。

「おもちゃを返してあげて。仲良く遊んだほうがが楽しいでしょ」

一生懸命、その子に説明してくれるのですが、

「やだ! ひとりで使ったほうが楽しい!」とお子さんはゆずりません。

「どうして? 仲良く一緒に遊んだほうが楽しいじゃない」

と、「仲良くしなさい」攻防が続くのを聞きながら「仲良くしなきゃダメ」ってのはあんまり通じないんだろうなぁなんて思ったりしたのです。


「仲良くしなさい」は「親の都合」

そりゃ、子ども同士が仲良く遊んでくれていると親は安心します。
だけど「誰とでも仲良く」しなくちゃいけないわけじゃないと思うのです。
ああいう場において子ども同士で仲良くして欲しいと思っているのは、どちらかというと親なんじゃないかなと思ったりもします。
わが子が、お友達のおもちゃを取り上げた。というセンセーショナルな事実は、親を動転させ、わが子の振る舞いに対して許すまじの鉄槌を下しているのだよ、というアピールをせねばならないと思いがちだから。

それはともかく小さい子の場合、「おもちゃを取り上げた」=「仲良くしていない」という公式が普通に成立していない気がするのです。
「おもちゃは借りたけど、〇〇ちゃんとは仲良しだし、お友達だよ」って感覚が子どもたちの中にはきっとある。そこは自然と同居しているのです。

だとするなら、子どもに伝えるべきは「仲良くしなさい」ではないのではないかなと思うのです。

「仲良くすること」の素晴らしさと、「おもちゃを取ったこと」の悪さはつながらない

おもちゃを盗る、という行為は相手と仲良くするとか、しないとかと言う以前に「ダメ」な行為であるのです。

相手と仲良くする気がなくたって、人が使っている物を勝手にとっちゃダメです。

この場合子どもに対して「仲良くすることの素晴らしさ」を説くよりも「人が使っている物を勝手に取るのはダメ」ということをシンプルに伝えたほうがいいのだろうと思うのです。

その上で、子どもたち同士でどうするべきかを決めたらいい。

子どもたちは案外ドライにおもちゃの行方について話し合うことができたりします。
「それじゃあ、これが終わったら使っていいよ」
「もう使っていいよ」
「後で貸してくれる?」
など。大人が介入するよりもずっと本質的な会話をしていたりするものです。

道徳で叱るよりも、原則を教える

人を叩いた、順番を守らなかった、食べているお菓子を取った、みんなのお菓子を独り占めした、などなど。

いろんなシーンで「道徳」でものを伝えようとすることってあると思います。
だけど、道徳って解釈がひろいし、多様な側面を持ちます。

それをよしとするかどうか、だけですでに議論の余地があったりもする。

だから、わが家の場合そうしたときはまずルールや原則を伝えます。

「人を叩かない」のは「仲良くするため」というかそもそも人を傷つけるような行為をしてはいけないんだ、を一番に伝えたいと思う。
道徳的なことは、その後で本人たちに考えさせればいいのです。

そして、道徳に対して本人たちがどういった結論を出そうと、それは自由です。でも、人を叩く、という行為に関しては本人たちの議論の余地はなくNGです。

子どものやること全てに白黒なんてつけられません。
だけど、大人が「これは原則ダメだろう」と感じることであれば、それははっきりとした態度で子どもに示すべきではないでしょうか。

道徳と、ルールは似ているようでまったく違うのだよな、と思うこのごろです。

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今日も、見に来てくれてありがとうございました。
何について、どう伝えるかって本当に難しいもんだなぁと思います。
ぜひ、明日もまた見に来てください。





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三木智有|家事シェア研究家
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