茶色の朝
「茶色の朝」という小さな本を知っているでしょうか?
20年前にフランスでベストセラーとなり、日本でも発売されています。
茶色以外のペットは処分するように。
そんな無茶な法律ができ、頭では「むちゃくちゃだ」と思いながらも、なんとなく受け入れ流され、いつの間にか「茶色」以外の存在は許されなくなる。そんな物語。
なに色だって猫にはかわりないのに、とは思うが、なんとかして問題を解決しなきゃならんというなら、茶色以外の猫をとりのぞく制度にする法律だって仕方がない。
そう気がついていてもなお、物語に登場する”俺”と友人の”シャルリー”はこの状況を受け入れていく。
なんにしても、
シャルリーは俺が猫を処分したときと同じく
なにごともなかったかのように話していた。
茶色化は身近にもある
この物語は「茶色以外は認めない」という権力の怖さの話ではなく、違和感を感じながらも傍観してしまっているその他大勢の物語だ。
イジメで言えば、当事者(被害者・加害者)ではなく、そのまわりにいながら何もしなかった多くの人。
政治で言えば、政策とか関係ないし自分がたった一票投票したところで何も変わらない、と選挙にも行かずに傍観者でいる人の話。
ぼくも、声を上げることが怖く、傍観者で過ごしてしまうことが多い。
だけど何も声を上げない、何も行動を起こさないというのは、示された不条理を受け入れるということでもある。
受け入れるというのは、つまり「賛成している」と捉えられてしまう可能性もあるということだ。
そして、そう思われた時に逃げ道はどこにもない。
これは明らかにやりすぎだ。
狂ってる。
なのに俺ときたら、
茶色の猫と一緒なら安全だとずっと思いこんでいた。
茶色化に対して、傍観しているというのは、つまりこういう結果を招くのかもしれない。
傍観者だったはずの、安全圏にいたはずの自分が、いつどんなタイミングで当事者になってしまうかはわからないのだ、
そして、そのときにはもう自分ではどうしようもないところまで物事は進んでしまっているかもしれない。
いまインターンをしているスクールでは、子どもたちが自分の意見を臆することなくドンドン発言する。
人と違う意見でも、違うこと自体は当たり前で、「そうかもしれないけど、だけど自分はこう思ったんだ」ということをハッキリと言葉にできる。
もちろん、そういうのが苦手な子もいる。だけど、それぞれがその場に対して主体的であるという感覚がある。
こうしたコミュニケーションやコミュニティ感は、塾などで学ぶ勉強とはまた違った力になる。
こうした能力って、外から見た時にわかりにくいし、テストで評価なんかもされはしない。
学校というのは、こうした目には見えにくい力(非認知能力)を育んでいけるほぼ唯一の場なのかもしれない。
少なくとも学校以上に長い時間、子どもと関われる場所は他にはないだろう。
家族、友人、社会、そして世界。
これらに対して、傍観者であってはいけないのだと思い知らされる作品だった。
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今日も見に来てくれてありがとうございました。
あっという間に読み終わる短い絵本ですが、深く考えさせられる一冊でした。
ぜひ、明日もまた見に来てください。