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「言葉にさせる」は結構な暴力かもしれない。

娘をはじめ、小さな子どもたちと話をしているとふと思うことがあります。
それは「言葉にさせる」って、相手は結構なパワーを使うことだなって。

子どもとの対話で大切なのは「子どもの話をちゃんと聞いてあげること」。これってよく言われているし、ぼくも心から同意します。これは子どもだけじゃなくて夫婦や大人同士でも同じことが言えるとも思います。

でもこの「話を聞く」というのがなかなかむつかしい。

そして、「話を聞く」というのがいつの間にか「言葉にさせる」に変わってしまい、「言葉にさせる」というのは相手にとっては結構な暴力だよねって思うのです。


▷「話を聞く」=「言葉にさせる」ではないよね!

小さな子どもなんかは、ボキャブラリーも少ないし、大人ほど深く考えて物事を判断していないと思いがちです。
つまり「子どもの話なんか聞いていてもよくわからないし、対して意味もない」って感じることありませんか?
言葉にできないんだから、こっちだって話をちゃんと聞くなんてできないって思ったりしません?

じゃあ、いくつくらいからならちゃんと話を聞いてあげられるのか。

小学生になったら? 高学年になったら? 中学生? 高校生はさすがに大丈夫? 個人差もある? 話すのが得意不得意という性格もある?

結論。
全部、あんまり関係ないなと最近思うのです。
なぜなら、それらは「話す側のこと」であり「話を聞く側のこと」ではないから。

幼稚園児でも、話すのが苦手でも、「話を聞くこと」はちゃんとできる。
「話を聞く」=「相手が上手に話す」もやっぱり違っていて、そう思っているといつまで経っても話を聞くことはできないよなって思うのです。

つまり、「話を聞く」ってのは。

× 言葉にさせること
× 相手が上手に話すこと

このどちらでもないと思うのです。


▷大人でも、自分の気持ちを正確に言葉にするのはむつかしい。

この歳になっても、自分の気持ちを正確に言葉にするのはむつかしい。考えていることを、相手に伝わるように話したり、noteに書いたりするのもむつかしい。

「うまく伝わらないな」って思ったり、表現したあとで「そういうことじゃないんだよな」って思ったりします。

「あったことを、ちゃんと言葉にして」「思ったことをちゃんと言葉にして」

そんな風に、誰かに言われて、がんばって言葉にしてそのあげく。

「よくわからない」「え? ちゃんと言ってって言ったよね?」

なんて返ってきたら。もう絶望か怒りしかわきません。ついつい「わからないお前が悪いんだろ?」って返してしまうかも。

でも、この大人でもむつかしいことを、大人は平気で子どもに求めてしまったりします。


▷言葉にするって、結構辛い作業だと思う

たとえば「今日、学校でなにがあったの?」なんて質問。何気ない質問だけど、よほどのトピックスがなければ、答えるのって結構辛いです。

何の印象にも残っていない一日の中から、人に話せるネタを探して、それがなくてもどうにか話せるように一日を抽出して編集して加工して、ようやく「今日はね、こんなことがあってさ」と話し始められる。

これって、noteの毎日更新で「ネタがない!」って苦しむのと、ほとんど同じ苦しみじゃないかって思うのです。

ましてや小さい子どもは、それを外国語で行うようなものです。
英語や、スペイン語や、中国語で「今日、職場でなにがあったの?」なんてバクっとした質問に的確に答えられます? ぼくはできません。

事象だけじゃない。
感情を言葉にすることだってむつかしい。喜怒哀楽のひとつだけなら、言葉で表現できるかもしれない。でも、感情は複雑に混ざり合っているのが普通で、複雑なものを言葉で表現するのはたいへんなことです。

だから、ぼくは「言葉にさせること」は「尋問」に近いとすら思ってしまうことがあるのです。


▷「聞く」のは言葉だけじゃない。

話を聞くというのが「言葉にさせる」ことでも、「上手に話してもらうこと」でもない。つまり話し手の問題にすり替えてしまってはダメだよね、とするのなら。受け手である聞き手はどうすればいいのか。

それは、とてもシンプルでノンバーバルなサインをちゃんと見ようよってことにつきると思うのです。

うちの娘も「お腹が痛い」とよく言いますが、「腹痛」なこともあれば「空腹」なことも「緊張」なこともあります。全部「お腹が痛い」という言葉で表現されます。

それを「お腹が痛いの? どうして痛いの? どこが痛いの?」と、ついついまくし立ててしまうのですが、娘が的確に自分の状況を言葉で示せるとは限らない。とくに緊張の場合なんかは、娘の中に「緊張している=お腹が痛くなる」という感覚が言語化されていないので、緊張と腹痛が結びつかない。

それを理解するには、娘をしっかり観察するしかありません。

どこかにぶつけてないか、変なもの食べてないか、下痢や便秘じゃないか、どのくらい痛そうか。質問を重ねながら、違う要素を削除していったりします。

そうすると「あ、緊張してるから痛いだけだな」なんてことがわかったりする。 

腹痛や病気なんかだったら、わかりやすいですが、日常会話でもこうした観察って大切だと思うのです。

つまり、話を聞くとは「ノンバーバルな表現も含めて観察する」ということです。

スマホを見ながら話を聞いていたら、コミュニケーションの齟齬が生じる理由は、ここにあるのだと思うのです。言葉だけでは、会話の本質を見誤るよと。

スマホや新聞やTVを見ながら「聞いてるよ」は、言葉だけで伝えなくてはいけない相手への負荷を高めているし、そもそも相手に失礼だし、言ったことが伝わってなくてケンカの原因になるし、といいことなしです。


▷「言葉にさせる」は暴力かもしれない

子どもに対してはもちろん、大人同士であっても。
すべてを言葉で表現させられるのは、結構な負荷だと思うのです。
「話を聞く」というのは言葉を聞くことではなくて、表情や身振り手振り、状況や質問を通して、本当に言いたいことを一緒に探してあげる作業とも言えるのかもしれません。

では、また明日。


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三木智有|家事シェア研究家
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