”信じる”技術
「信じるのが大切なのはわかっていますが、それだけじゃ子どもは変わらないと思うんです」
その言葉を投げかけた女性を見ていたら、ふと母のことを思い出した。
僕の母はとにかく心配性だ。
何をするのにも口を出し、手を出し、危険から守ろうとしてくれていた。
遺伝なのか、そんな母に育てられたからなのか、たまたまなのか。3歳の娘の子育てをしている僕も、同じように心配性なところがある。
「これハサミでチョキチョキしていい?」
最近覚えたてのハサミでお菓子の袋を空けてみたい娘が要求してきた。
「いいよ、自分でやってごらん」
口ではそう言ってやらせるが、手付きはまだまだ危ない。
そわそわしながらジッと眺めていると、上手に切れないため、ただ袋を挟んだり離したりしている状態になってしまっている。
彼女はなかなか袋が切れないことにイライラし始め、ハサミの動きがさらに勢いよくなってくる。その力任せに開閉されているハサミの行く先に彼女の親指が迫ってきた。
「貸してごらん、パパがやってあげるよ」
見かねた僕は思わずハサミを取り上げてしまった。
「自分でやりたい!」
そう言って不満顔をする娘を尻目に、袋を切ってお菓子を与えた。
子どもが怪我をしないように見守るのは親にとって大切な役割のひとつなのだ。
ある日、娘が妻に対して同じようにハサミを使いたいと要求した。
ハサミを貸してあげた妻は、横目でたまにチラッと見るくらいで娘のハサミさばきをジーッと眺めるようなことはしていない。
「大丈夫かな?」
と不安になって妻に声をかけるが妻は、
「大丈夫だよ、万が一ちょと切ったって痛いってわかるでしょ」
と動じない。
思い返せば、うちでは娘が遊んでいて転んだりすると、
「ナイスファイトーーーー!!!」
と声を掛ける。
これは娘がつかまり立ちをし始めた頃からの習慣で、コロンと転がった娘に妻が大声で声を掛けたのが始まりだ。
なぜ「ナイスファイト」なのかと言えば、「転ぶ」ということは「チャレンジした」証拠であると信じているからだ。
結局娘は四苦八苦しながら、ハサミでお菓子の袋をちゃんと切り、とてもご満悦だ。
「ちゃんとできたね! できると思ってたよ!」
と妻が声を掛けたら、娘は天下でもとったかのようなドヤ顔で応じていた。
妻は人を信じるのがとてもうまい。
結婚当初、ぼくが起業をしたいと言ったら「今の仕事はキッパリ辞めてチャレンジしなよ!」と背中を押してくれた。
仕事の話しを聞いていても、しっかりと人に仕事を任せ、あげく感謝されていたりする。
仕事にしても、子育てにしても、夫婦関係にしても。
人を信じると言うのは案外難しい。特に僕のように心配性だと、ついつい口や手が先に出てしまう。
昔、仕事で後輩に言われたことがある。
「いやー、三木さん俺のこと信用してないからなー」
その時は何となく冗談で話しをしていたつもりだったが、わりと彼としては本質を伝えてくれていたのかもしれない。
心配性で何でも干渉してしまうということは、相手からしたら「信じてもらえていない」と感じてしまうこともあるのだ。
こちらとしては、そんな気は全然ないし、当然相手を信じているから委ねたり、任せたりしているつもりなのだが、一度あげたオモチャを遊んでいる途中で取り上げるのと同じ行為をしていた。
どんなに強く相手のことを信じていても、気持ちだけではそれは伝わらない。
人を信じるのがうまい妻を見ていてぼくは、彼女の「信じる」がなぜ相手に伝わるのかがわかった。
信じる、と言うのは技術なのだ。
その技術とは「待つ」こと。そして「責任を負う覚悟を持つ」こと。
この2つができていないと、自分の思っている「信じている」は伝わらない。
「信じるだけじゃ、子どもは変わらない」
そう言った女性の気持ちはよくわかる。僕自身、信じることは気持ちの前提程度にしかずっと思っていなかった。
でも、「子どもを信じること」で変わるのは「子ども」じゃない。
変わるのは「子どもとの関係性」だ。
心の中で「信じてる!」といくら唱えたって、誰も何も変わらないだろう。
でも、相手を信じることをちゃんと態度にして伝えることができたら、相手との関係性は変わってくる。
仕事を委ねてもアレコレと口出しばかりされていては、相手も自分のことを信じることができないかもしれない。
何をやってもすぐに「危ない」と取り上げられたり「汚れちゃう」とやらせてもらえなければ、信じてもらえていないと言う思いは強くなってしまうだろう。
信じることで、ちゃんと相手は変わるのだ。
「信じてもらえている」という確信は確実に力になる。その自信はチャレンジ精神を高めてくれるかもしれない。
でも人を信じるということは、何よりも自分自身を変えてくれる。
相変わらず心配性なぼくは、娘の危なっかしい行動にドギマギしている。
任せた仕事がちゃんと終わるか心配になったりもする。
だけど意識して「待つ」ようになったら、手や口を出すよりもずっと気持ちが楽になった。
娘や仕事仲間との関係性が変わり、彼らの成し遂げた成果が自分のことのように嬉しく感じられるようになった。
そう、信じる技術を身につけると言うのは、人の喜びを自分の喜びとして感じることができると言うことでもあるのだ。
「信じているよ」は口で言っても伝わらないかもしれない。
だけど、ちゃんと伝えるための技術を身につければ、相手も自分も喜びが何倍にもなれる。それが”信じる”技術なのだ。
※天狼院メディアグランプに投稿掲載の記事を転載しました。