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子どもに求めてしまうこと

昨日の投稿に、オヤノミカタの松井さんからこんなコメントをもらいました。

そこから、子どもに求めるってどんなことなんだろうと色々と考えさせられました。

2種類の子どもに求めること

子どもに何かを求めるとき、「純粋に子どものため」「実は親自身のため」の2つがあるんじゃないかと思っています。

「実は親のため」に子どもに何かを求めるって、間違ったことのようですが、別にそうではなくてそういうことってたくさんあると思うんです。

たとえばスーパーのお菓子コーナーでイヤイヤしまくる子どもに対して「もっと聞き分けのいい子になって欲しいな」なんてのは、もう「親(わたし)のため」でいいと思う。
他にも「もっと自分で片付けをして欲しい」なんてのも、結構な割合で「実は親のため」要素が入っているんじゃないかなぁ。(もちろん子どもの将来のためでもあるけれど)

何かを求めているときに、この2つを切り分けて自覚できていればそんなに問題ない気がするのです。
危険なのは、この2つを混同していることに親自身が気がついていないとき。

とくに「子どものため」と思っているけど「実は親自身のため」なんて場合。

例えば、勉強が他の子と比べて少しのんびりペースな子に、「じゃあ、塾だ!」「ほら、公文だ!」って本人のやりたい気持ちよりも、他の子とペースを合わせることに重きを置いてしまう場合など。
もちろん「このままじゃ、この子は勉強ができないままじゃないか」って子どものためを思っているのは事実ですが、それって「親自身の不安を解消したい」気持ちの方が一気に高まっちゃってるんじゃないかな? と思ったりもします。
塾に通わせることが悪い、ということじゃなくて「学校での教え方だとこの子のペースに合わせてもらうのは難しそうだ。だからこの子とじっくり向き合ってくれそうな塾や家庭教師をつけてみよう」など、その行動に至るまでのプロセスが大切な気がするのです。

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なんで、「純粋に子どものため」「実は親自身のため」の2つを切り分けられたほうがいいと思うかというと。

それを切り分けられることで、求めることについての押し引きがしやすくなるんじゃないかと思うから。

「子どものため要素」よりも、「実は自分のため要素」が強いな、と思ったら「いまはちょっと引いておこう」と判断できる。
逆に「子どものため要素」が圧倒的に高いと感じたら「無理をしてでも要求を通さなくちゃ」って判断になるかもしれない。

結局、子どもに対して何かを求めるにしても、求めないにしても親のエゴって入ってくるわけで。
そう思うと、どのくらいエゴが入っているかって自覚するって、判断の軸を作る上で重要だと思うのです。

子どもは放っておいても育つ。
だけど、放置していていいわけじゃない。

だから、親が子どもに対する言動に自覚的であるってことが大事なんだろうなと思っています。


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今日も、見に来てくれてありがとうございました。
子どもと自分との関係の解像度をもっとあげていかないとなぁなんておぼろげに思ったりしています。
ぜひ、明日もまた見に来てください。


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三木智有|家事シェア研究家
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