家族だからこそ、共感できない違いも、信じてそのまま受け入れることで、わかりあえることもある。
野本響子さんのこの記事を読んで、夫婦や親子も同じだな、と思った。
赤の他人や、まったくバックグラウンドが違う人に対してでさえ「自分とは価値観がまったく違う人なんだな」という前提に立つのは、かなり意識的になっていないとむつかしい。
距離が近くなればなるほど、「価値観が違う」という前提に立つのを忘れてしまう気がするのです。「忘れてしまう」という感じで、その前提にすら気が付かないことだってあるかもしれない。
5歳になる娘は、忘れ物に対しての抵抗感がものすごく強い。
ある日、午前の幼稚園と、午後からのプレイスクールの両方でそれぞれプールに入るという日があった。つまり、水着が2つ必要な日。そのことに気がついたのがなんと当日の朝だった。
そんな日に限って、1セットしか水着がない。そこで妻が急いで乾燥機にかけ、無事に水着を2セット持って幼稚園へ向かうことができた。のだけど、水着がないかもしれないとわかった時の娘の不安がりようはかなりで、「今日は寒いからもうプール入らない!」と言い出すほど。
今朝は、幼稚園へ出発しようと車に乗った途端「体温計ってないで!」と気づく。測り忘れてしまったら幼稚園で体温計を借りて、その場で検温できるからそうしようと言うと、不服そう。すぐに妻が「じゃ、体温計持ってくるから車で計ろう!」と車から降りて体温計を持ってきてくれた。
他人からしてみたら、どうでもよさそうなこと、どうにでもなることでも、本人にとってはそうじゃないことなんて、いくらでもある。
そんなときに「なんで? 別にいいじゃん」と言ってしまうのは簡単だ。
だけど「なんで?」なんてことが、実は大切じゃないことだってあると思うのだ。
嫌なものは嫌だし、不安なものは不安。
それは「考え方や価値観の違い」でしかなくてその理由に納得する必要が、必ずしもあるわけでもない。
差し出された価値観の違いを、そのままの形で「そういうもんか」と受け取ることだって、必要だと思うのだ。
つい距離が近くなるとそれっぽい理由を見つけて、共感しようとしてしまう。
それだってもちろん大切だけど、たとえ共感できなかったり、ピンとこなかったりするような価値観の違いであっても、そのまま受け取ることができたら、それでよかったりすることもある。
家族だからといって、なんでも理解し合い、共感し合えると無理するよりも。
共感できない違いも、信じてそのまま受け入れることでわかりあえることもあるような気がしている。
では、また明日。