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愛情はきっと、隠し味くらいでちょうどいい。

先日、Twitterに流れてきたこの記事にずいぶん色々と考えさせられました。

何よりも、タイトルに大きな共感を覚えました。
「愛情」よりも「安心感」。娘と共に過ごしていたり、幼稚園の子ども達を見ていると本当にそう思います。


”愛情”という不確かな罠

愛情って言葉ほど、不確かで曖昧でうつり気で、しかも主観的な言葉もない。1,000年も昔から読まれている数々の詩や歌も、その不確かさや曖昧さを表現したり、それに苦しんだりするものが多い。

これは別に男女の愛情に限った話ではないなと思いました。

記事の中に出てくるようなDVも。
子どもを教育や躾と称して振るう精神的、肉体的な暴力も。
”愛情”と言ってしまえば、そうなのかもしれない。

愛情とは、あくまでも主観的な感情のガソリンのようなもの。

主観的であるがゆえに、愛情というガソリンから生まれるアウトプットがどんな形で現れるのかは他人にはわからない。優しさや慈しみになることもあるし、暴力になることもあるかもしれない。

ガソリンはエネルギーに変換されて身体を温めたり、車やバイクを走らせてくれる。だけど、火を付ければ爆発するし、飲んだら死んでしまう。
人の命を救う救急車にも使われるし、戦争の元にもなる。
そんなガソリン自体に良いも悪いもないように、愛情にだって良いも悪いもない。

あるのは、何かしらのエネルギーに変換されて、何かしらの行動を起こす原動力になるということだけ。

それなのに、愛情は尊く、素晴らしいものだと過剰に信じてしまってはいないだろうか。

愛情はそんなに無敵じゃない

すべての親が子どもに対して”愛情”を抱いているかどうかはわかりません。
親が子に対して愛情を抱くのは、自然な気持ちかもしれませんが、わりと文化的な”倫理観”の要素も強いと思うのです。

大昔、始皇帝を打ち破り漢を創り出した劉邦は、敵に追われて危機一髪の中、自分が助かるために自分の子を馬車から放り出しました。
歴史を見れば、王位を争って親子間、兄弟間で熾烈な争いがあるのも当たり前でした。
古事記を読めば、イザナキ、イザナミは最初に生まれた子がヒルコであったという理由で子として認めずに捨てています。

その時代の倫理観によって、親子や家族の愛情の価値観は変わってしまうこともある。

「愛情があれば大丈夫」
「生まれてすぐに保育園に預けてしまうと、愛情がそそげないかな」
「どんなにわがまま言ったり、泣きまくってても、愛情があればそれも可愛いでしょ」

個人的には、愛情はそんなに無敵ではないと思うのです。
愛情自体には、良いも悪いもない。その変換されたエネルギーが親を追い詰めてしまうこともあるし、もうひと踏ん張りがんばる力になるときもある。


「安心感」という相手目線

それに対して”安心感”は、相手が感じるものです。こちらが与えるのではなく、相手が感じる。
しかも、安心感の条件は愛情に比べて可視化しやすい。

「愛情に溢れた場」の再現は難しいけれど「安心感のある場」は再現性が高いのではないでしょうか。

危険性がないこと。
リラックスしてのんびりできること。
またここに帰ってきたいと思えること。

例えばそれが、安心感につながるかもしれません。

相手からのリアクションがないと、伝わっているかどうかわからない愛情をそそぐことに躍起になるよりも、安心感の提供を心がけるほうがお互いの気持も楽な気がします。

愛情はきっと、隠し味くらいでちょうどいい。
ぱっと見は入っているかどうかわからないのだけど、なくても料理としては成立するのだけど、でも、オンリーワンを感じさせてくれるのは愛情があるから。
そんなくらいで、いいのかなと。

愛情というガソリンを一生懸命燃やし続けるのは少し辛い。
愛情は自分の中にそっと抱きながら、安心感の提供を心がけたほうがきっと穏やかな育児ができるんじゃないかと思うのです。


今日も、見に来てくれてありがとうございました。
寝る間際に妻が「うちの子の寝顔が、綾瀬はるかみたい」と宣っていました。これもきっと、愛情のガソリンが爆発した結果なのだと思います。
ちなみに、僕は「綾瀬はるかを超えてしまった」と思いました。

ぜひ、また見に来て下さい。

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三木智有|家事シェア研究家
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