子どもを大人扱いするってことじゃなく、その子自身として接する、ということ。
今日幼稚園のお迎えのとき。
「〇〇ちゃん(うちの娘)のパパー。実はな・・・」
と、娘と仲良しなお友達に話しかけられました。
「んー? なに? どうしたの?」
幼稚園ではこの季節。お迎えの後も園庭で遊んでいる子どもたちと、談笑している親御さんたちの姿がちらほら見える。
涼しくなってきたから、子どもたちも園庭のアスレチックでもっともっと遊んでいたいのだ。
娘をお迎えにいくと、いつもそんな子どもたちに話しかけられ、ハイタッチしたりする。これも、お迎えにいく楽しみのひとつ。
だけど、今日話しかけてくれた子は少し落ち込んでいる様子。喧嘩でもしたかな? と思いながら話を聞くと。
「実はな、今日〇〇ちゃんといっしょに遊んでて、タカ鬼やりたかったんやけど、やろーって言っても〇〇ちゃん、いっしょにやってくれへんくて、嫌やってん」
と。つまりいっしょに遊びたかったのに娘がそれを無視したか何かで遊んでくれなかったということらしい。
「ふーん。それ、ちょくせつ〇〇(娘)に伝えた?」
「・・・言ってない」
「そっか。それじゃ、俺じゃなくて本人に言ってみたら?」
「うん」
***
こういうとき、子どもは大人の力を借りようとする。ぼくも、この子と仲がいいからまず最初に言いやすかったのだろう。
そして、子どもにこう言われると「ほら、〇〇(娘)。お友達が悲しかったって言ってるよ。こういうときはなんて言ったらいい?」なんて誘導尋問的に「謝れ」を強要してしまいそうになる。
だけど、大人に言われて、言われたから謝る言葉に、なんか意味なんてあるんだろうか?
少なくともぼくは、その言葉に意味を感じない。
子どもだから、言われないと解らないんじゃないか。
子どもだから、謝るシーンをちゃんと教えてあげて理解させなくちゃいけないんじゃないか。
子どもだから、言いたいことがちゃんと言えなくて誤解を生んでしまうんじゃないか。
そんな風についつい「子ども」というひとくくりで、見て、判断してしまうのは、その子に対して失礼だなと思うのだ。
***
「〇〇ちゃん。あんな、わたしな・・・」
ふたりは真剣な顔で、足りない言葉で、お互いの言おうとしていることを理解しようとしはじめた。
「色鬼に入りたかったん?」
「違うねん、タカ鬼したかってん」
「いま、いっしょにする?」
「いまじゃなくて、幼稚園にいたときに」
会話はなかなか噛み合わない。なんだかんだでまだ4歳。ストレートに伝えるのだって難しいのに、言いにくいことを緊張しながら伝えているのだ。大人だってモゴモゴしてしまうだろう。
ふたりは笑い合ったり、真剣になったりしながら懸命に話をしている。
すこしの間ぼくは近くでその様子を見ていた。だけど、助け舟を出すつもりもないし、その必要もなさそうだ。
そう思って、そっと席をはずした。
だから、ふたりの会話がその後どうなったのかはわからない。
だけど最終的にはいっしょに楽しそうにかけっこをしていた。なんだかんだで、わだかまりが取れたのならそれでいい。
***
ぼくは子どもと、ひとりの「個」として接し合いたい。
「子ども」という肩書じゃなく、その子自身として。
「大人」という肩書じゃなく、ぼく自身として。
子どもたちは、ちゃんと自分たちだけで問題を解決する力を持っている。
それを信じることが、大人としての最初の助け舟になるんじゃないかと思っている。
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今日も、見に来てくれてありがとうございます。
子どもを大人扱いするってことじゃなくて、その子自身として接する。
それが子どもとの関係をつくる上で、大切なことなんだろうなと思ったりします。
ぜひ、明日もまた見に来てください。