興味の炎を燃やし続ける”薪”
今日、妻と「自分の興味持ったことをどうやって継続しているのか」という話になりました。キッカケは、妻がこのブログを読んだこと。
記事を書いているしんざき氏が意識しているという興味を育てるステップは
「興味を受け入れる、共有する」
「興味を広げる、方向づける」
「興味をつなげる」
の3つです。
とのこと。
この中で、妻から見たら僕には「興味を共有する」というのがほとんどないように見えるのに、なぜ興味が続くのか? と疑問に思ったようです。
「僕なりに、共有しているんだけどな」とも思いつつ、でも確かに趣味のコミュニティに入ったり、趣味の友達がいたりするわけじゃない。
ひとりで黙々と、淡々と、粛々と(笑)趣味を日々こなしております。
なので、自分なりに共有しなくてもなんで続くのかを考察してみました。
継続のための”薪”がなんなのか。
誰とも共有出来ない興味って、自分の中でも大きく育ちにくいんです。
誰かと共有して盛り上がれたという成功体験があると、また興味を共有したくなる。
記事にもあるように、誰とも共有できない興味って確かに長続きしません。
僕だって誰とも共有を全くしていないわけじゃない。
だけど、わざわざ共有をして自分にプレッシャーをかけるのが嫌いだったりもします。
思うに、「外的動機づけ」。つまり、他人からのプレッシャーや共に楽しむ強制力みたいなのって薪みたいなものじゃないでしょうか。
興味の炎が燃え尽きて消えてしまいそうな時に、仲間がいたり学びを共有し合うことで新たな燃料が投下されて、再燃できる。
この「外的動機づけ」は何も「誰かとの共有」だけとは限りません。
僕にとっては「本を読む」「調べる」「試す」が、薪としては結構いい仕事をしてくれます。
例えば、僕は4〜5年ほど前に知り合いに進められて座禅をはじめました。
始めた当初、妻にもその魅力を話し、一時期一緒にやったりしていましたが僕はひとりでその後も継続。ほとんど欠かすことなく週4〜5日は短くても座禅を組む時間を設けています。
これも、妻以外にはほとんど誰にも言ったことがない秘密の趣味です。
あるかどうかわからないですが、「座禅の会」とか、最近流行りの「マインドフルネス」のコミュニティみたいなのがあったとしても、絶対に行きたいとは思いません。
何人かで集まって「じゃ、これからみんなで座禅しようぜ!」とも思わない。
それでも、毎日毎日足をしびれさせながら半目になって、仏教徒でもないのに座り続けています。
時に「俺は何をしているんだろう」と虚しくなることもあります。でも、幸いマインドフルネスがブームになり、瞑想って色々いいことあるよって本や調査結果が溢れています。「なんでこんなことしてるんだろうなー」と思い始めたら、そういった本などを読んで再び燃えるエネルギーを投下します。
燃え広がるエネルギーも大切
僕はわりと燃費がいいので、一度火が付けば地味〜に火を絶やさずに燃やし続けています。たまに本を読んで薪をくべるだけで、その火は小さく燃え続けてくれます。
でも、やっぱり誰かと共有したり、巻き込んだりしながら大きく燃え広がっていくほうが、そこから開けていく世界は大きいんだろうなと思います。
妻はわりと大きく燃え広がって、いつの間にか鎮火してしまう方らしいですが、そう思うと燃料と炎のバランスって大切なんだなと思います。
興味の炎が大きく燃え広がって、周りを巻き込んだりするほど、得る学びや成長のスピードが炎の大きさに対して追いついていかないこともあるのかと思うのです。
つまり、華々しい側面を垣間見た瞬間(体験した瞬間)に飽きちゃう。
本当はそこから掘り下げていくと、面白い世界が広がるのだけど最初のテンションや華やかさにはどうしても敵わない。
それに対して、僕のように小さな火を絶やさぬようにチリチリと燃やしていても、キャンプファイヤーのような華やかな側面との出会いや、新たな一面の発見は難しい。
子どもにはたくさんの火種と、適切な薪をくべる
僕は別に、飽き性が悪いなんてひとつも思いません。
飽きたら辞めて、新しい興味にどんどん向き合えばいい。新しい種火をどんどん撒き散らしたほうが大きく育つ興味の炎と出会えると思います。
でも、それと同時に出会った炎をどうやって育てていくのかも、重要だよなと感じるのです。
子どもは、この炎を育てる力をちゃんと持っているように思います。
興味あるものは自分でどんどん練習したり、調べたり、知ってる事柄とつなげて考えたりと、つまり生活そのものが趣味の世界にどっぷりはまり込んだ状態になりやすい。
娘を見ていても、いまはあらゆる数字や文字の世界が面白くてしょうがないのを感じます。車を見ても、看板を見ても、ごはんのメニューを見ても、すべてが彼女にとって「知っている文字と勉強中の文字」で溢れています。
でも、彼女の世界の中だけでは多くの興味の火種と出会うことはできません。自分の力だけで視野を拡げるのは難しい。
だから、親としてはできるだけ多くの火種を彼女の中に灯してあげたい。
それが、大きな炎になろうと、さっさと鎮火しようと、それは別にいいと思うのです。
どうしても、一度始めたことだから最後までやり通して欲しいと思ってしまいますが、ある程度継続してみて、つまらなかったならそれまでだと。
そして、もうひとつ。
適切な薪をくべることも、大切な役割かなと思います。一緒に調べたり、楽しんだり、話を聞いてあげたりすることが、興味の炎を燃やし続けるための薪になる。
後は、子ども自身が興味の炎を自分の力で育てていけばいいのかなと思うのです。
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今日も、見に来てくれてありがとうございました。
noteも小さな趣味のひとつです。地道に続けていくのが僕の性に合っていそうです。
ぜひ、また見に来て下さい。