今一度“家族”という概念を捉え直す
先々月の事だ。
私が行っているコミュニティー内での話。
『あなたにとって家族とは何ですか?』
お題に沿ってトークしていくだけの企画だが、
毎回それぞれの価値観に面白い発見がある。
大多数が『安全地帯』『自分の居場所』
『素に戻れる場所』『休まる場所』
等と答え、私も同じような回答だったと思う。
そんな中、一人の方が言った言葉に
私はとても考えさせられた。
『家族とは誰かが頑張るもの、
頑張って維持するもの』
話は飛ぶが、先日音楽番組を見ていた。
星野源が好きで、しかもその日歌う曲が
『喜劇』と『光の跡』
私の星野源の好きな曲トップ5に入る2曲だ。
私は興奮気味だった。
ダイニングにある椅子を
テレビの真ん前に持ってきて
食い入るように
推しの全てを受け取っていた。
そこで事件。
突然もう自分でもコントロールできなくらい
涙がじゃんじゃかじゃんじゃか
大当たりのパチンコ玉のように
止まらず出てきたのだ。
ここで先ほどの前の話と繋がる。
『喜劇』という曲は、
ただの家族の歌と一クセ違う。
ずっと居場所を探していた私は、
なんとなく今の“家族”という居場所を
なんとなく見つけて、
何となく出来上がったモノ。
そんな気がしていたのだ。
でも違う。
私の居場所は作る物だった
なんだか忘れていたのだが、
私は、私たちは、居場所を作ったのだ。
どんなあなたもそれでいいよと
受け入れてくれる場所、パートナー、
選んで選択したのは私自身であり
それは、自分達が作り上げたものだったのだ。
“できるだけ暮らそうか”
“君となら喜劇よ”
“ふざけた生活はつづくさ”
(私が好きな表現。
星野源らしさが出ていてとても好きな言葉。
このどちらにも転ぶ余裕を持たせた
言葉選びにまんまと引き寄せられている私。)
家族とは、作る物だ。
当たり前にそこにあるものじゃない。
自然発生したものでもない。
選択、決断した先にあるものということを
忘れていたのだ。
自分たちが作ってきたものなのだ。
この『家族』という
それぞれの形にしか作れない、
幸せだとか、居場所だとか、
とにかく自分たちにとってこれだと思う形を
日々模索して作っている。
家族とは誰かが頑張るもの、
頑張って維持するもの
この、彼女の答えに繋がる。
生活というものは、淡々と続き無意識に流れ、
なんとなくあるものであると思っていたが
そうではなかった。
作ったものだ。
自分で、自分たちで作ったものだ。
あーじゃないか、こーじゃないか
こうした方がいいのではないか
こうしてみよう、あーしてみよう。
自分たちで作ったものだ。
そんななんだか当たり前のようなことを
育児に追われて数年間すっかり忘れていた。
『喜劇』の歌詞はそのコントラストを
しっかり浮き彫って表現している歌だ。
この歌詞が、自分の過去をかする。
自分はなんだか周りから浮いている、
間違って地球に生まれれきたんだナ。
火星だったら良かったかもしれないナ。
そんなことを思っていた。
そして徐々に馴染めるようになり、
普通のフリも朝飯前になった
これで地球に馴染めるゾ!
これが本来の自分を壊す
呪いだったと気づくのはもっと先の話だけど。
しかしそんな『フリ』をしなくても、
今生活できている自分がいる。
受け入れてくれるパートナーがいる、
子ども達もいる。
私も同様、どんな彼らも彼女らも
受け入れられている。はず。
そんな、当たり前なようで
当たり前ではないことに
突然感慨深くなったりする。
『家族』という責任重大なものを
自分でもよく作ったもんだな、
としょっちゅう思っていたし
少し荷が重いな、なんて
育児しながら思ったりしていたけど
でも今はこの作り上げた『家族』
その『責任』すら愛おしくて。
タイトルに戻る通り、
今一度家族という概念を捉え直す
きっかけになりました。
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