写真家というこっ恥ずかしい肩書を名乗る理由
ということで改めましてこんにちは。写真家の畑と申します。
みなさまお元気でしょうか。
ということで最初っからかなり攻めたタイトルにしてみました。
これは前もって強調しておきたいのですが、これはあくまでも僕個人の意見です。他の人は全く別の考えをお持ちだと思いますので、そこは誤解なきようお願いします。
という確認事項を済ませて、さあいきましょうか。
写真家。自分を写真家と名乗ること。毎回これからこうして写真家、写真家と連呼していくわけですよ、ええ。
ぶっちゃけ超こっ恥ずかしい。
いや、誰もが認める世界的な写真家さんとかなら分かりますよ。
この自分が?大した業績もないのに?偉そうに写真家?
何それいい歳こいてバカっぽいんですけど
まるで「目標:BIGになる」ですよ。
俺はYazawaか?
って思うわけですよ、実際。
ふと何かのタイミングで知らない人と会話した時に、「普段は何をされてるんですか?」って聞かれた時のあの気まずさ。「え、、、あの、、、写真を撮っておりまして、、、」と、なるべく「写真家」という言葉を出さずに会話しようとするんですが、そうすると「えっ写真家さん?どんなものを撮っておられるんですか?」ってなるわけですよ、ええ。その段階では質問していただいた頭の中はキラキラファンタジーでいっぱいです。一流のモデルさんをスタジオに呼んで撮影かしら?ニューヨークのソーホーのギャラリーあたりで活動されてる人かしら?有名人撮影したことありますか?
もうほんとごめんなさいそんなんじゃないんです(平謝り)
まあ、その一方でインスタとか色々なメディアを見てみれば、「写真家」と自称していらっしゃる方はたくさんいらっしゃいます。言っちゃあなんですが、「えっ、それで写真家とかフォトグラファーって言い切るんだ、、、」と思うこともなきにしもあらず。でもそれは写真家とかフォトグラファーと自称する人たちがそれぞれ言い合ってるとは思うんですよね。そこに関してはお互い様ですよね、と。まあ同族嫌悪みたいなもんでしょう。
とはいえ。
僕の日常の半分近くが写真に関わる何かです。
なんだかんだで毎日5〜6時間は写真に関わる作業をし続ける人生をこの15年くらいは送っています。そして今でもこうして写真を撮ることについてああだこうだと考えているわけです。何をやっても写真が自分の人生を追いかけてくる。でもその「写真」というものの姿がよく分からない。でもなぜかそこにいる。自分の隣に座ってこっちをじーっと見つめてくるわけですよ。
そんなこんなでしばらくは自分を写真家と呼ぶことに大きなためらいがありました。だって自分がその基準を満たしているのかすら分からないのに、なんでそんなことを軽々しく言えんだよ?と。
できるだけ自分のやっていることは人に言わない、万が一写真家だとバレても何を撮っているかは言わないでおこう、と。なので撮り溜めたものも一部の専門家以外には全く見せずにここまでやってきました。
でもまあある時ふと思ったわけです。
退路を断つ時が来たな、と。
いわゆる「もう戻れない」というやつですね。英語で言うとpoint of no return、って言う状態です。ぶっちゃけ人生をやり直すには歳をとりすぎた。そして今の自分の人生から写真を取ったらもう何も残らない。
博士課程を中退して20年、大した社会経験もなく海外暮らしで日本の会社のマナーも常識も知らない人間に、「真人間」に戻るチャンスなんてねーよな、と。そしてエクセルもよく分かんないし。一般社会では確実に使えない人材トップであることに間違いはない。
何の条件をクリアしたら自分を「写真家」と呼べるようになるのかは、今でも全く分かりません。要するに言ったもん勝ち。一億総写真家。アンタも写真家ワタシも写真家、目潰し投げてドロンドロン(Frank Chickens)
なんでやねん
でも、それを無理にでも名乗ることから出てくる「覚悟」みたいなのもあるよね?と。あ、自分の残りの人生死ぬまでこれ握って生きていくしかないんだ、みたいな。もうこれを引き受けるしか方法はないんだな、と言うことにある時気がついた、というか。別に「俺って全身写真家!これがないと狂って死んじゃう!」みたいなそういう情熱的な感じじゃないんです。むしろ、災害が起きた時に慌てて冷蔵庫を開けたらたくあんしか入ってなくて、「あ、俺これ1本であと1週間生き延びないといけないんだ」という醒めた覚悟、という感じ。生きるにせよ死ぬにせよこれしか残ってなかったわ、マジか、と。
今の僕にとって写真家という肩書はそんな感じです。
あ、インスタもやっております。
写真を見てみたい方はぜひどうぞ。
https://www.instagram.com/tomoakihata_jpn/