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自分の才能を知る方法その1・まずは落ち着け

ということで、皆様ご機嫌麗しう。
畑と申します。

今回は、未来への希望に満ち溢れたうら若き少年少女から人生若干迷い気味のお若い皆様へのご提案です。特にクリエイティブな職業に興味のある方はぜひご覧ください。酸いも甘いも噛み分けた中年以降のおっさんおばさんは「そういうこともあるわよねーそうよねーはーこりゃこりゃ」と相槌でも打っていただけると大変助かります。

ええっとですね、先日もお伝えしたとおり、私齢50歳を迎えまして。多分このnoteを書いているお若い人たちからするとだいぶ年上だと思うんですよ。noteを見てたら、若い皆さんの頑張っておられる姿や、ちょっと背伸びしている感じ、とか、ぶっちゃけ、未来がある、ってこういうことよね、としみじみしてみたり。つまり自分の将来を迷うだけの時間がある。「写真を追求した結果見えたもの」とか書いてあるのをみたら、「でも君まだ若いやんこっちはそこからプラス20年やってるけど何も見えんぞ」とか思ったみたり。

50歳にもなりますと、「ゴール」が目の前にちらつき始めるわけですよ、ええ。まあゴールとは言ってもまだだいぶ先かもしれませんが、周りを見渡したらうっかりゴールに到着しちゃった気の早いお友達なんかが何人かいるわけです。もうこれからは「何でもできる」わけじゃない。これからは、「いかに残りの時間で有効に活動を続けるか」に焦点が移ります。そうなった時に改めて自分の人生を振り返って、改めて「才能」ってなんだろう、って思うんですよね。今日はその辺のことを書いてみたいと思います。

運良く僕は周りにクリエイティブな方がたくさんおられまして。そういう人に会うたびに、必ず質問することがありまして。それは
「何でその職業を選べたんですか?そのきっかけは何ですか?」
と。

まあそんな質問が愚問である場合もあるんですよ。サラリーマンとか、職業として数の多い人はこの質問はあまり意味をなさないんですが、でも例えば「エミー賞受賞した舞台デザイナーさん」とか、「テーマパーク専門建築家」とか、「ブックデザイナー」とか、そんな仕事存在してるの?みたいな特殊クリエイティブな職業のかただと、何をどうしたらそんなニッチな才能を伸ばせるんよ?みたいな仕事が結構あるわけです。それ専門の学校があるわけでもないですし、一体若い頃にどうやってそこをピンポイントで狙えたの?と。

で、そういう人たちに色々と聞いて回ってみた結果、とりあえず共通点はあるな、という結論に達しました。それはまあ端的に言えば、

建築家の人生にダンサーとしてのチャンスは降ってこない

ということです。これを聞いたらほとんどの人は「当たり前やろ」と思われるとは思いますが、でもここを誤解していると結構人生間違った選択をしかねないわけです。

こういう特殊クリエイティブの方にこの質問をすると、皆さん、「えー、何でだろう、気がついたらそうなってたの」という人がほとんどです。実はかなりの割合の人が偶然でそこまで辿り着いているっぽい。でも実際それは偶然なのか、と言われると結構微妙で、その人にはその職業に至るだけのチャンスがその人には降ってきている(間違ったものを選ばなかった)ような気がしてなりません。

例えばお知り合いの黒人の舞台デザイナーさん。エミー賞受賞歴もある大変な才能のある方ですが、その方がその業界に関わるきっかけは、「アートスクール時代に飛行機に乗ったら、たまたま隣の人がそういう業界の人で、お話しして自分のスケッチ見せたらすんなり就職までいった」という人がおられます。まさに偶然。しかしこの偶然が、「舞台デザイナーになるための天から与えられたチャンス」だったと思えば、その人はそのチャンスをちゃんと受け取れていた、ということになります。そこで「俺はダンサーになるつもりなんだからこんなチャンス要らねーよ」って思ってしまってたらそこで終わり、ということです。ここが重要です。天から降ってくるチャンス、って、自分がやりたいことと合致しているとは限らないんですよ。

天からイケメンが降ってきた事例

僕は写真家なんて全く望んでいませんでした。10代くらいの頃から学者に憧れていたので、できればその方向で生きていきたいと思っていました。民族音楽が好きだったので、民族音楽の研究者になりたくて、わざわざ手紙を書いて某大学の研究室に話を聞きに行ったこともあります。実際大学は1浪して何の興味もない大学の法学部に行きましたが、これではあまりにも自分の人生としてつまらなさすぎる、ということで編入で別の大学に行き、そこで博士課程まで行きました。中退したけど。でもこれって自分の努力でやってたことで、まあ言ってみれば無理くりそこまで進んだ、という感じ。実際努力して博士課程まで行ったけど、同期とかにとんでもない化け物みたいなのがいるわけですよ。「こんなの絶対に勝てない」みたいなのが。センスにおいても、知識レベルにおいても。そういう人だけが教授になれるんですよね。

その一方で、学問の世界では努力では絶対に越えられない壁があったのに、なぜか写真に関しては大した努力も無しに前に進んでいく。実感としては学問に注いだ努力が10だとしたら、写真に注いだ努力は2以下。でもぶっちゃけ写真のほうが評価される。

で、後でよくよく振り返ってみてビビるわけです。

  • お年玉で買った人生最初の買い物がカメラ。そのカメラで神社仏閣を撮って回るがただの記録で別に写真家なんて全く考えていなかった

  • 高校時代に竹藪で韓国籍のパスポートと一緒にカメラを拾う

  • そのカメラで祖父の遺影を撮る

  • 大学生になってからそのカメラもってクラブに行って写真撮ったら「次から記録係よろしくー」ということでそこからドラァグクイーンのパーティーに関わり始めて都合10年ほどどっぷり浸かる

  • 親戚からもらった別の祖父の遺品がなぜかカメラ

  • 買ってもないのに何故かカメラがいつも手元にある・何故か撮影コストが他人持ちになって自分は払わなくても良い

  • なんかよくわからないけど「写真だけは続けろ」と色んな人に言われる

大体これが25歳前後までの出来事。
それから似たようなことがぽつぽつ起こりました。

やっぱり天から降ってきてたサインは確実にあったのです。


そのうちこれで写真撮ってみたい

多分ね、もしその人が学者さんの人生を選ぶ必要があるのであれば、多分もうその「天からのサイン」は来てるはずなんですよ。下手したらもう10代の段階でそれは来てるはずです。スポーツや音楽の世界ならその辺のサインはもっと顕著ですよね、多分。僕の場合は、今から振り返ってみたらどう考えても学者よりも写真に関わるものが降ってきてたとしか言いようがない。しかも努力とか自分の意思とか全く関係ない。

だからと言って学者目指していた人生が無駄だったわけでもなく。多分写真家を目指してただひたすら写真を撮っていた人とは比較にならないくらい膨大な本を読んでるのは多分間違いないと思いますし、やっぱりそこは自分の写真のバックグラウンドの厚みを持たせるのにはとても役に立っていると思います。

でもやっぱり、その知識は学者としてではなく写真家としてアウトプットされるようになってるんですよね、僕の場合。

ということで「自分の才能ってなに?」って思っておられるお若い皆さん。
ちょっと冷静に考えてみましょう。自分の身の回りに何がありますか?
なんかよくわからないけど自分に偶然に供給され続けているものに何か共通点はありませんか?ダンサーやりたいと思って毎日練習してるるけど、鼻ほじりながら書いたクソみたいな文章や絵がやたらと周りの人にウケたりしてませんか?お家の様子も見てみましょう。お父さんやお母さんが豊かな趣味をお持ちで、たくさん本を持っておられたり、レコードやCDをいっぱいコレクションされている方。それも一つのサインです。あなたの意思に関係なくあなたの周りにあるのですから。お家が立派なお商売をされている方。それも一つのサインです。サラリーマンの家庭では考えられない環境にあなたは生きています。

「そんなイベント何もねーよ!至って普通だよ!」という方。
きっとあなたはどこに行っても生きられます。ある意味生きる場所を選ばない、一番安定した人生を送れる人です。世間はそれを凡人と呼びますが、凡人ほど安全に生きる事に最適化した人類は存在しません。普通であることは素晴らしいことです。

個人的にはこの辺の人生のイベントをよく分析すると、案外自分に向いた道は見えてくるんじゃないかと思います。これからの時代、ここの見極めは若ければ若いほうがいい。逆にここを見落とすと後々しんどい世界が近い未来にやってくる、と思ってたほうが良いかもしれません。

ということで、さらに突っ込んだ話を次回にしてみましょうか。

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