「池の水ぜんぶ抜く」は良いこと? 3/3(展望編) 処理水も自然物!?

 こちらは展望編になります。

  1.  「池の水ぜんぶ抜く」は良いこと? 1/3(前編) 自然は存在しない!?

  2.  「池の水ぜんぶ抜く」は良いこと? 2/3(後編) 人工物は自然物!?

  3.  「池の水ぜんぶ抜く」は良いこと? 3/3(展望編) 処理水も自然物!?

 今回はタイトル3を扱います。

 他者を非難・誹謗する意図はございません。


注意

以下の3点に注意されたい。

  • 筆者は生物学にも行政学にも無学な門外漢

  • 素人のいい加減な意見

  • 過激な言い回しがある

これでも問題ないと思う方には、ぜひ読んで欲しい。





1:「自然への考慮」とは、どこまで?

 後編では、人間は自然を変える「権利と責任」を有しているため、「自然への考慮」をすべきであると述べた。
 そのためには「自然の形を知ること」が必要であると考えた。今回はその具体的として、昨今物議を醸している「処理水」を考えていきたい。

 よく「その他の核種はどうだ」や「生体濃縮はどうだ」と耳にするが、それを考慮すること自体は悪いことではない。しかし、まだまだ「自然の形を知ること」ができていないように思える。



2:放射性物質は生物?

 そもそも放射性物質がなぜ放射能をもっているか、ご存じだろうか。その実態はとよく似ている。

 先ほどまで冷たかった物体が、何の寄与もなく忽ち熱くなることなどあり得ない。しかし、熱いものが常温に冷まされる現象はよく目にするだろう。
 物体は不安定な状態から、より安定した方向に向かう性質がある。

 そう考えると、「放射性物質」という禍々しい言葉も、柔らかく見えてこないだろうか。(語弊はあるが、)彼らは中性子という余分なエネルギーを持っているせいで、いつもより不安定なので、それを別のエネルギーである「放射線」に変換しているだけなのだ。
 それは、熱を放出するマグカップと同様に、ただ安定した状態を目指す動きに他ならない。

 つまり、後編で述べた「生物」と同様に、ただ自身にとっての最善を目指しているだけなのだ。そして人間も魚も、「放射性物質の行動」をもとに競争・融和し、最善を目指していくだけである。



3:人間も自然の一部なんだから

 「処理水」の件で、短絡的に文句を言うことは簡単である。

 しかし、あなたの「考慮」は前後編も含めた思考を上回る高論卓説であろうか。もしそうならば、大変喜ばしい限りである。

 しかし、そうでないなら、ほんの少しで良いので足を止めてみてはどうか。コーヒーやら紅茶でも良いので、一服してみて欲しい。

 私は処理水の放出に、諸手を挙げて賛成している訳ではない。しかし、反対している訳でもない。

 ただ、その行為が人間にとって良いものかどうかに注視している。この言葉の真意は、これまでの言説を読んでくれた諸君には自明であろう。
 つまり、科学的な「膨大な考慮」をもとに静観しているだけなのだ。それは生物学という「生物にとっての生態」と、経済学・政治学という「人間にとっての生態」を含む科学である。



4:結局、勉強かも

 私は後編から終始、「人間も自然の一部である」ことを貫いてきた。経済的・政治的に動く人間も自然の一部である。

 しかし、無考慮で環境を弄んでしまったら、最終的に人間にとって危険な状態を造りかねない。だからこそ、「自然の形を知ること」を大切にして欲しい。

 そのためには、愚直に様々な具体例を知り、抽象的な概念を知る必要がある。つまり、勉強しかない
 中学生や高校生の頃に買った教科書や資料集でも構わない。知れば知るほど、考慮すべき事柄が増え、自身の無知が露になり、他人を糾弾している暇はなくなるだろう。

 この言葉は私にも跳ね返ってくる。もしかしたら、最初に必要になのは「謙虚になること」なのかもしれない。




余談

 最後まで読んでくださり、誠にありがとうございます。解りづらく見るに堪えない文章だったと思いますが、どうでしたでしょうか。荒唐無稽で、腹が立った方もいらっしゃるかもしれません。
 今後は改善していき、読みやすい文章を心がけていきますので、これからも何卒よろしくお願いします。
 また、前編でも申し上げましたが、偉い人間ではございません。どうか真に受けないでくださいませ。

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