幸福の基準とコスト、そして専門職として
この前、少し投資は自分にすることがいいのではと私の価値観を投稿したら、様々な意見をもらった。「あぁ、なるほどね」と納得するものの、幸福の基準とコストが違っているから違った意見が出てくるのだと。
人生におけるコストとは、時間や経済的なもの、かけるエネルギーなど。自分が何にコストをかけるのか、それはその人が求める幸福によって変わってくるのではないか。古い価値観的なカテゴリーを示すならば、家庭と仕事というカテゴリーがあげられる。どちらも充実させることができればとても幸福なことではありつつ、なかなか難しいのも現実。
そこで少し考えてみたいのが、幸福のためにかけられるコストの総量は決まっているということについて。時間は誰もが24時間とか365日とか誰もが同じ量しか持っていない。ここから考えるとわかりやすくなる。
時間を何にどの様に割り振っていくのかを考えていく。睡眠や食事などの時間、家族に使う時間、仕事に使う時間、自己研鑽に使う時間などなど。どれにどれくらい使うことが良いとか、正しいとかではなく、各々が選択して、どれの充実を自分は欲しているからそこに時間をかけるか決めればいい。
ただ、選択するにあたって、選択肢も各々違っている。その上で考えて欲しいのが、状況や環境の中から自分が選択肢を選び、今の選択肢を作っていることを。
私は、自分に日々起きた出来事によって創られた存在ではない。私は、自分自身の意志で選択して築きあげられたものである。( カール・グスタフ・ユング)
つまり、家族がいるからというのは、家族を作る選択肢を選んだ結果の話で、その選択肢も自分で作っているし、専門職だからという職業てきなのも然りである。
仕事を充実させることを目指す人もいれば、家庭を充実させることを目指す人もいる。もちろん、両方できる人もいる。両方できる人は天才だと思っている。公私ともに自分が目指す完璧な状態に持っていける人は尊敬しかない。
なかなかそれが私はできないから、自分のバランスや目指すものを作り、落としどころを考えている。それは妥協ではなく、優先順位を決め、自分の充実を目指してる。
だから、人は何が幸福かは自分で決めればいい。ただ、それは他人から見れば、幸福に見えないこともあるんじゃないかなと。それでも、自分が幸福であると感じられればよいかと。
つまり、何にでもコストはかかる。だけど、必要と思われるものにコストを割けない理由としては、自分の選択肢が言い訳にならないことも多々ある。
『武士は食わねど高楊枝』
そんな言葉を専門職は持っていて欲しいと願っている。
少しキツイ話として考えて欲しい。支援職、治療職、教育職についてる人々には逆の立場で考えて欲しい。自分や自分の家族を
『他のものにコストをかけているので、専門職としての自己研鑽にコストをかけられず、経験だけでやってます』と言っている専門職に家族や大切な人を任せられるかを。
あくまでも、私はできるだけ専門職としてのコストをかけていきたい。それは、支援者、治療者としてお金をもらっているから。専門職の質が、人の人生で大きな影響を与えかねないから。(他者には求めてない、あくまでも個人の価値観、私見。これを言わないと後で炎上するので。)
簡単なことで、私が私の家族や大切な人々を任せたいと思える専門職を目指したいと、常に考えている。