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自分が自分になったプロセス

何故、今の自分がこんな感じになったのだろうか。
少しだけ自己紹介を。
とは言いつつも、自己紹介は少し難しい。自分が何をしていて、何者かがいつも説明が難しい。特に会社をはじめ、クリニックを辞めてからは特に何を生業にしているのかということが説明がなかなか苦手ではある。
タイトルの回収を少しだけさせてもらえれば、今までの経歴を。
昔の自分、いわゆる思春期の自分は自分が何をしたいのかを考えていてもふらふらしており、目標もなくその場しのぎで生きてきた。なんだかんだで、その場しのぎでなんとかなっていたのもある。そんな中で、なんとなく大学も行かなきゃいけないよなと思いながら、理工学部を受験し入学。それも、なんとなく理数系の科目が苦手じゃなかったから程度の理由であった。その「なんとなく」が自分の人生の歯車を動かしていくのも人生の面白さであった。人生の歯車が動き出した理由の一つ、後藤家のいい加減さでもあるのだろうが入学式を控えたある日、理工学部が宇都宮って書いてあるよと私か母か忘れたが気付く。入学には引っ越し&一人暮らしが必要と入学1週間前に気付くというドタバタ、一人暮らしの覚悟も希望もなくそのまま一人暮らしに突入。そんなこんなで、東京以外の地で初めての生活がスタート。
「まぁ、人生こんなもんだ」
結局は興味もない理工学部なんてそんなに真剣にすることもなく、色々考えたあげく人生の方向転換。そこで考えたのが「この分野の仕事、たぶん続けられない」という結論のみ。何が自分がしたいのか、何が自分ができるのか分からないけど。(ここの思考はまた改めて)
社会福祉士になると決めて、専門学校へ。なんだかんだで、精神保健福祉士・公認心理師も取得することに。
そこから、病院のソーシャルワーカー、クリニックのソーシャルワーカー・カウンセラーなんかを経て今。
こんな人生の流れの中で、今の自分になったのは出逢いがかなり重要なのは他でもない。
出逢いの中で、自分が思っていた自分が本当に自分のことを理解でていないと認識することが出来た。だからといって自分のことを理解できるかは別の話ではある。ただ、自己理解と言われるものを皆が行おうと思った時に、自分という狭い世界や価値観で判断することは難しい。わかりやすく言えば、鏡で見えるものは二次元であって三次元に存在する自分を捉えることは難しいのと同じである。出逢いも自分でコントロールしている内は、自己理解を進めることは難しい。計算できる出逢いや予測できる刺激だけでは、いかようにも自分を誤魔化すことが可能で、見たい自分だけを見ようとする。誰もがカッコワルイ自分なんか見たくはないけど、カッコワルイ自分を受け入れていかないと何も変わらないのではないかなと。この年齢になって思うのが、偉そうに人前で話す機会があるもののカッコワルイ自分をちゃんと持ちながら話さないと、狭い了見の老害的発言にしかならない。
自分が自分になったプロセスは、出逢いで「カッコワルイ自分」をとことん自覚できたことにあるのではないだろうか。できれば多くの承認を求める自分が存在しながらも、都合のいい承認しか求めていない自分を自覚すること。そんな中で変化する自分を常に受け入れて素直に認めているつもりではある。他者評価を気にするななんて言葉は机上の空論で、他者評価は気になるし必要なもの、その上で今の自分を、今の評価をしっかりと受け入れながらやっているのが自分。だからできることをしていくと、今の自分になる。
「まぁ、今の自分で満足はできない。今の自分は想像してなかった。」
そんな言葉もあるものの
「でも、今の自分には満たされているものの沢山ある。それを大切にしないと」
という感覚も大切にしている。

ここから自分がどこに行き、何をするかはわからないが、自分が気の向くまま色々変化していくんだろうなと、自分も人間関係も環境や状況も。
「自分にとって楽しいことをより感じられる方に行くしか今は選択肢はない」
と自覚しているのも、今の自分。

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