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『ライオン・キング:ムファサ』を観て考える、「作品の出来に対する責任の所在が不明」問題
この冬一番期待していた映画は『ライオン・キング:ムファサ』だった。監督は『ムーンライト』でアカデミー賞作品賞を獲ったバリー・ジェンキンス。音楽は『ハミルトン』や『モアナと海の伝説』のリン=マニュエル・ミランダ。声優には前作からドナルド・グローヴァーやビヨンセに加え、アーロン・ピエール、セス・ローゲン、マッツ・ミケルセンら実力派俳優が参加している。サンクスギビングシーズンに『モアナと伝説の海2』を公開したばかりのディズニーが仕掛ける2024年ホリデーシーズン猛攻にあって、モアナとは正反対の、大人の観客をも呼び込む、ビターかつドライな大作に仕上がるはずたった。
はずだった、のだが。確かに見るべき要素もある。バリー・ジェンキンスが見せる照明と撮影へのこだわり。三角関係になったムファサ、スカー、サラビの切ない恋愛模様。ミランダのキャッチーな音楽。
しかし全体としては、繰り返される構図、壮大だけど平板な風景、同じような楽器を使った楽曲、見分けのつけにくいキャラクター。「地味なルックだけど味がある良作」ではなく、単純につまらなくて退屈な作品、になってしまった印象だった。
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その鑑賞の帰り、ジムでベンチプレスをしていた時に、宇多丸の『アベンジャーズ』評を聞いていた。曰く、「経験はないけど腕のある監督を招集して、映画にとって重要なドラマパートを作り込ませる。アクションやCGIはプロのチームがカバーできる」というMCUが得意としてきた座組を、十数年前には「良きこと」「新しいこと」として語っていた。
まさにそれだ。そして今回のバリー・ジェンキンスも、まさにそういうMCU監督的な人選だった。彼に期待されたのは、過去の小規模な作品で見せた「コミュニティ/アイデンティティを描くことへの情熱」「詩的なビジュアルスタイル」「感情を丁寧に描くストーリーテリング」だったのだろうと思う。そして今回のチームもまた思ったはずだ。「CGIはディズニーのプロに任せればいいだろう」と。せっかく前作で「超実写」技術に成功したわけだし。ついでに音楽にミランダを起用しておけば間違い無いだろう、と。
「ムファサ」には所々にガッツポーズをしたくなるようないいショットやシーンはある。それでも全体としての出来に満足できないのは、結果として自分の「得意分野」だけに閉じこもって映画全体のクオリティコントロールを十分に出来なかったから、監督が畑違いな分野で、部門横断的にバリューを発揮できなかったからではないか、と思ってしまう(言い過ぎかもだけど)。
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これこそが今回取り上げたい「監督の役割の変化」の問題だ。いい監督は、得てして映画のコアとなる技術や知識(アクション映画ならアクション、アニメ映画ならアニメ表現、映画としての格を上げるなら誰よりもシネフィルであること)に精通している。そしてそのコア表現の引き出しの多さを強みに、作品全体を調整していく。アクション映画の「アクションパート」、CGI映画の「CGI部門」という作品のコアとなる要素のコントロールをうまく出来ず、人間ドラマや風景ショットの最適化のみを期待された監督は果たして監督なのか。
そしてそのように作られた作品が必ずしも良いわけではない。クロエ・ジャオの『エターナルズ』、マーク・ウェブの「アメイジング・スパイダーマン」シリーズなど、門外漢の起用が失敗に終わったケースは多い。逆に言えば、アクションの撮り方をわかっているルッソ兄弟が「エンドゲーム」以降も起用され、『リトル・マーメイド』や『アラジン』を作ったジョン・クレメンツ/ジョシュ・マスカーが『モアナと伝説の海』を作れたように、日本でもCGIが得意な山﨑貴が『ゴジラ-1.0』でアカデミー賞視覚効果賞を獲り、スタントマン出身の坂本浩一が特撮ヒーロー界のエースとなったように。作品の肝となる技術に精通している監督が次の名作を生み出すというのもまた常だ。
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監督がアクションやCGを「プロのチーム」に外出しする時、映画全体のバランスを保つのは誰なのか。ここでふと川村元気の顔がよぎる。各ポジションの一流の人選を集めて作った映画が「微妙」に終わり、やはりアニメに精通した新海誠監督の作品だけが記憶にも記録にも残る作品になる。プロデューサーは作品の質に責任は持てないから、責任の所在が不在で、「各プロフェッショナルがそのポジションの範囲内では精一杯頑張りました」という作品が世に出る。そういう「プロデューサー主導」「部分最適重視」な製作哲学の結果、この作品、誰の作品なんだっけ?これ誰がやりたい企画なんだっけ?というのが不透明な作品(プロジェクト)は枚挙にいとまがない。
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それで興行的に成功するならまだ救われるが、「ムファサ」は米国で初登場2位、『ソニック3』の後塵を拝している。映画「ソニック」シリーズのジェフ・ファウラー監督もアニメーター出身でその道の職人だ。
映画という総合芸術において、監督が映画のコアとなる技術や知識を誰よりも持つべき存在であり、それを軸に全体最適を図るべきであるということ軽視したことが、結果として作品全体の完成度を下げる結果に繋がるのではないか。映画ファンとしては、このような布陣で制作された作品に対しては、期待値を下げるだけでなく、企画意図や全体のクオリティに対する責任の所在を批判的に問う視線が必要になるかもしれない。
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