見出し画像

マジックのゴール(目的)とは?

われわれがマジックを行うときに目指すゴール(目的)はなんなのでしょう?
この難しい問題に「奇術のゴール(目的)はマジカル・アトモスフィアの実現である」と言ったのはスペインのマジシャン、アルテゥーロ・デ・アスカニオ氏でした。


マジカル・アトモスフィアとは

氏の説明によれば、「マジカル・アトモスフィア」とは、本物の魔法が存在するかのように感じさせたときに発生する雰囲気だということです。
仕掛け・タネを全く感じさせずに不思議なことが起こり、魔法が実際にあるのではないかと思わせるのが目標だということだと思います。

これを知ったとき、なんとなく「なるほどー。そうか、そうかもなー」と思ったものですが、ちょっとした違和感も感じていました。(アスカニオさんには失礼ながら)いいところまではいってるのだけどなー、ちょっとピンとこないなあと思っていたのです。

魔法だけなのか?

奇術師が表現する不思議は本当に魔法だけなのでしょうか? 

魔法の世界観が好きで、そういう演出を行っている人も多いかも知れません。ましてや「マジシャンとは魔法使いの役を演じる俳優である」という有名な言葉もありますので、そのようにしている人もいるのでしょう。しかし、それで奇術の演出の全てをカバーはしていないのではと私は考えています。
たとえば、「メンタルマジック」という分野は人間の精神力で不思議を起こすという演出のマジックなので、魔法を表現しているわけではありません。「そうは言っても、超能力ってマジカル・アトモスフィア(魔法の雰囲気)のようなものでしょ」と言う方もいるかもしれません。

しかし私は、逆にいまのメンタリズムは「魔法ではない」ということを主張して成り立っているように見えます。

(話がややこしくなる余談ですが、いまや現代メンタリズムの超先端ともいえるルーク・ジャーメイ氏は「本物の魔法と思われたい」と言っています。これはちょっと他の普通のメンタリストとも、ましてやマジシャンとも違う変わった意見なのと、これから話すことを打ち消すことでもないので、ここではいったん脇へ置いておきます)

話は戻って、メンタリズムだけでなく、他の奇術の演出についても考えてみます。不思議が何の力で起きているかについては、「魔法」とは限らず、いろいろなことがアリなのが奇術だと思うのです。

日本人であれば、奇術を演じるのに「魔法」を使わなくても、「陰陽の呪術(という演出)」を使ってもいいなんてことはすぐに思いつきますし、「超魔術」だろうと「ブレインダイブ」だろうが、いろいろなことがマジックの源だという演出に使える可能性があります。「陰陽の呪術」とか「超魔術」も魔法みたいなものじゃないのという人もいるかもしれませんが、わざわざ「魔法」でなくそれらの演出を取り入れたということは、演者は「魔法ではない」と言っていると知らないといけません。逆に、どれも「魔法ではありませんよ」ということで、リアリテイを出しているわけです。

というわけで……
奇術が扱う不思議の源は「魔法」だけに限らない。

ここまではいいでしょうか?

「ちょっと待って。それって日本だけの話なのでは?」という人がいるかもしれません。いえいえそんなことはないのです。欧米の奇術にも「魔法」を不思議の出どころとしていない演出は、たくさんあります。

デック1組を広げてカードの並びを記憶してみせたり、ギャンブリングテクニックでエースを取り出してみせるなんていう奇術もありますが、それぞれ「記憶力」や「テクニック」を表現しているのではないでしょうか? どちらも人並み以上の記憶力やテクニックでしょうが、決して魔法ではありませんよね。

このようにその気になれば、魔法を表現していない奇術の演出は、これまでのマジックの中にもたくさん見つけることができます。

そして私は、今後も考えると、奇術はずっと魔法だけを表現していくとは限らないとさえ思い始めています。

これが「奇術のゴールがマジカル・アトモスフィアの実現だ」というのは、(全くはずれではないけれど)統一理論の元とするには正確性に欠けていると考える理由です。


では、奇術のゴール(目的)はなんだろう?

マジカル・アトモスフィアではない、そこに当てはまる言葉はないものかと、何年もずっと考えていたのですが、ここで最近私が考えている代案を発表してみたいと思います。

「奇術のゴール(目的)は、奇跡の実現である」
__奇術は観客の前で奇跡を現出させてみせることを目標とする芸能であるというものです。その演出としては、魔法の力だけでなく、何の力を使ってもよいのです。

「奇跡」というのは、人によっては「いったん死んだ人が生き返る」とかのように、絶対に起こりえないことと捉えることもあるかもしれませんが、そうとも限りません。どんなときに奇跡という言葉は使われているのでしょう。

たとえば「故郷で同じ小学校だった友達と、何十年もしてから、渋谷の交差点でばったり。これは奇跡だ」などという場合もあります。絶対に起こりえないとはいえません。

恋人に「何億という人類の中から君と出会えたのは奇跡だ」そんな使い方もします。実際に起きていることなのに、確かに奇跡のような気もします。

ところが、日食などという自然現象や、「テレビが映る」なんていう現代人にとっては当たり前なことも、その理を知らない人にとっては、奇跡に見える場合もあるわけです。
「春になるたびにこんな美しい桜の花が咲くなんて、これは自然の奇跡だ」などという表現もありますね。

奇術の世界では、たった52枚の中から選んだカードを当てただけで、奇跡のように感じさせることができるのは皆さんご存知の通り。いやそれどころか、コインをどっちの手に隠してるかの1/2の確率を当てただけでさえ奇跡と思わせることができます。

こう考えていくと、単純に、起きない確率の高い事柄を、人は奇跡と呼ぶのではないようです。奇跡を起こさないといけないというと、大変そう!と思うかもしれませんが、そうでもないのです。ではどういうものを人は奇跡と呼ぶのでしょう?

奇跡とはなんだ?


それはズバリ、珍しいこと、目新しいことなのだと思います。
そして、奇跡がウケるのは、人間は新しいこと、珍しいこと、物事の新しい見方を知ることに感動を覚える生き物だからなのです。

これがわかるといろいろなことが理解でき、そして応用ができます。

●奇術師が「同じ奇術を繰り返さない」「タネを明かさない」のは、その芸が、珍しいこと、目新しいものでいられなくなるから禁忌なのだと理解できます。

●似たような現象のトリックを続けちゃいけない。ひとつひとつがどんな素晴らしい作品でも、現象が目新しくなくなるわけですから、ウケが悪くなります。テイクワン型のカードマジックをいくつも繰り返したりしないほうがよい理由です。

奇跡を起こすということは珍しいこと・新しいことを感じさせること。そして、それは、作品の良さだけの問題ではなく、いつどのように、どんなマジックを見せるのか、また誰に見せるかをコントロールすることが、「奇跡」を起こすためのマジシャンの技量だと言えるのではないでしょうか。

<まとめ>

マジシャンが行うべきことは奇跡であり、「奇跡とは相手にとって、目新しいこと、珍しいことである」と知ろう。

<後記>

「魔法と奇跡は言葉が違うだけでほぼいっしょじゃないの」と思う人がいたら、「とんでもない、わかっちゃいない、これはもう全く似て非なるものです」と強調しておきます。魔法は現実には起こりえないことしか含みませんが、奇跡はもう少し大きな不思議の集合で、魔法はその一部でしかありません。魔法を見せるのがゴールではなく、珍しいこと(普通ではないこと)を見せて面白がらせるのが奇術の目的なのです。
魔法と奇跡、ちょっとした違いなのですが、言葉や、理論は私にとって大変大事です。この代案を思いついたことにより、マジックを考える際に魔法的な現象だけを考えてしまう必要がなくなり、創作にも新たな視点が広がります。さらに、マジックに関するいろいろなことが統一的に解釈できるようになりました。
この概念に至るには、アスカニオ氏の思索なしにはたどり着くことができませんでした。こんな話が面白ければ、下に上げた2冊も大変面白く読んでいただけると思います。


参考文献  

「マジカル・アトモスフィア」のことも知ることができる、どちらも大変面白い書籍です。オススメします。

■『奇術師の理論』大野真央・著
フェザータッチマジック↓
https://www.ftmagic.jp/view/item/000000003870?category_page_id=ct40

■『アスカニオのマジック』 アスカニオ・著 田代茂・訳
フレンチドロップ↓

<CM>
"使える" セルワーキングメンタリズム『S・O・3原理の研究 by 下村知行』Noteにて公開中。


いいなと思ったら応援しよう!