想像を超えた30歳の幕開け~自分の心に素直に生きる~
30歳になり、2か月が経ちました。
毎年1回必ず通っている神戸のとある喫茶店で
マスターと1年ぶりに話をして、腑に落ちたことが沢山あったので、言葉にしていきたいなと思い数か月振りのnote更新。
何かに追われていた20代のキャリア
遡ること7年前。ベンチャー企業を中心に就活をしていたころ
そんなことを考えながら、直観的にここだと思った会社にジョインした。入社してからの日々は本当に我武者羅で、社内でも指折りの会社コミットが高い人として、仕事にも全力投球。
「本当によくやるよね」
「そんなに頑張っててすごいね」
と言われるくらい本当によく働いていた。
全力で駆け抜けた20代、働いている自分自身は
それが心からやりたいと思えると思い込んでいた。そんな感覚だったのかもしれない。
心の奥底に抱えていた「怖さ」
今は自分の中で向き合えたからこうして書くことができるけど、未来に対して何かしらの「怖さ」を感じていたんだと思う。
怖さは
不安や、他者比較
世の中から見てこうした方がいいとか
キャリアをガンガンあげなきゃとか
ジョブサイズ広げなきゃとか
できること増やさなきゃとか
自分はできるようにならないといけない
という「呪縛」に掛かっていたんだと思う
そしてその呪縛から解き放たれようともがくコマンドが、「全力投球」「全力疾走」だった
「怖さ」や「弱さ」から目を背けると
20代のベンチャー企業での日々は、とにかく、とにかく組織の中で機能することに特化していた。自分では気が付いていなかったけれど、ハードワークすることが自らのwantだと、本気で思っていた。
自分の特出した部分(通称:能力の輪)は、「世界一の何でも屋」的に動ける部分。上司やクライアントのオーダーに対して、戦略、戦術、立ち回りが瞬時に見えてくるし、適応対応する。やりたくても、やりたくなくても「見える」感覚。
ただし、そこに対して「機能」させることに特化して、自分の気持ちを押し殺すこともできちゃっていたのだ。
おそろしいのは、押し殺していたと、気づいていなかったこと。
自分と正面から向き合うと決めて過ごした日々
話が少しだけ飛ぶけれど、僕は人と係わるのが好き。だけど、もっとも苦手なことは、「リスペクトの欠けたやりとりをする」関係性。
そしてリスペクトが欠けるかかわりの始まりは「評価」な気がしている。
相手のことを想い、フラットに、リスペクトを持ったやりとりがしたくても、「評価」がベースのやりとりに陥った瞬間に、歯車が狂う。
「ビジネス」のシーンではその危うさを知って、係われているかどうかが本来はとても大事なのに、多分、みんなどこかで忘れちゃっているし、どこかで諦めちゃっているのかもしれない。
世の中にある、謎の「評価関数」の中で生きて、適応したのか、させられたかの結果なのかな。
まんまと、自分も忘れてしまっていた。相手を評価して、自分を評価してという、よくないスパイラルに入っていたのかもしれない
言わんこっちゃない。何よりも自分が、have to(やらなければならない)にまみれていたのだ。
「解放」の方法は「認知」を変え、「時間の使い方」を変えること
この1ヶ月は、認知を変え、時間の使い方をとにかく変えた。マインドのデトックスとでも言うんだろうか。
正直苦しかった。予定を詰めることで、達成実感を味わっていたから。同時にできた余白で、整い始めたマインドで、たくさんの人と話した。
そのwantに素直に、仕事も、趣味も、友人関係も、時間の使い方を変えた。
人間は維持しようとする機能があるから、変化を嫌う(コンフォートゾーンに戻るホメオスタシスのフィードバック)のは知っていたけど、何度もより戻りそうになった。
そんな時に助けてくれたのは、身近にいる人たち。タイミングで「問」を投げてくれて、俯瞰的に自信を捉える機会を作ってくれた。結局、人は一人で生きていけないんだなを、地で感じた期間だった。
noteで表現しきれないかもしれないけど、正直いってこの期間を経て人格が変わった気がする。正確にいうと、憑き物が落ちたというか、そぎ落とされたというか、自分が人生かけて本質的に大切にしたいものに、改めて手触りを持てたというか。
「やりたいこと」を「やる」と決める覚悟と決断
最近よく耳にする、「やりたいことやればいいじゃん!」というセリフ。
まあそうなんだけど、それにはきっとこんな背景があると思うんですよ。
本当に自分が「やりたいこと」を認知して、それに自らの生命時間を使うと覚悟をもって「決断」して、行動をするということ。
社会に出るとどこかで忘れちゃったり、おいてきちゃったり、見なくなっちゃったりしているものが、人それぞれある気がする。そこを大切にできているときに、それぞれの人生の豊かさに繋がると思う。
決断は自分でするものだけれど、そのプロセスであったり、そのあとは必ず誰かに活かしてもらい、誰かを活かすことの中で育まれていくものがあり、未来が創られていくと思う。
「未来」は「創れる」
前の記事もやってきたけど、過去の延長に未来があるわけではなくて、未来から時間がやってくるし、未来は自らで創れるものだと思う。そして、たいてい予想通りの未来なんてこない。だから人生は面白い。
なぜこうして僕が文章を書きたいと思えているのか。それは、この記事を世界中の誰かが読んだときに、何かのきっかけや余韻を提供できたらいいなという、ただのおせっかいな気持ちからだ。
相手のことを思い、あたたかいおせっかいにあふれる世界に、なったらいいなという気持ちで、今日も過ごしていきたいと思います!
ここまで読んでくださったあなたへ
文章でつながることも素敵なご縁だと思っています。
自身は認知科学コーチングのプロコーチであり、世界一のなんでも屋として過ごしていきたいと思っています!
もしこの文章を読んで、もすと話してみたいと思った方、コーチングセッションを受けてみたいと思った方がいたら、以下から連絡もらえたらうれしいです!
※コーチング契約の詳細は個別でご相談できればと思います!いきなり有料実施や、無理強い、過度な営業は一切行いませんのでご安心ください!