見出し画像

小倉城(埼玉県) 城郭訪問記#003

 2024年の城納めとして、小倉城へ行ってきました。
 この日は、小倉城以外にも比企城館跡群をいくつか巡ろうと思っていたので、東武線・武蔵嵐山駅にある観光案内所で電動自転車をレンタルして、城跡へ向かいました。


石垣(石積)

 小倉城の見どころは、何といってもこの城独特の石垣が見られることです。この石垣は、この地域で採れる結晶片岩系の石材を使っており、中世につくられた板碑のような平板状の石を積み上げて作られています。
 なお、「石垣」という表現に違和感をもつ方もいらっしゃると思いますが、現地案内板(下記参照)の表記にならって、この投稿内では「石垣」と表記しています。

城郭石垣の呼称については、様々な研究があります。ここでは積まれた高さが3m以上あるため便宜的に石垣の呼称を使いました。(ときがわ町教育委員会)

現地説明版より

 麓の大福寺から登山道を10分ほど登ると、3郭と1郭の間に出ます。まず最初に3郭の石垣を見に行きました。小倉城の石垣は、崩落が激しく、土嚢で応急処置されているところもたくさんありました。せっかく来城したので、城内を隅から隅まで見たいと思う気持ちもありますが、貴重な石垣の保護のためにも、立入禁止区域に侵入することは慎みましょう。

石垣保護のための立入禁止区域があります

 郭3外面の石垣は、最大約5m、総延長100mに及ぶ小倉城跡の中で最大規模の石垣になっています。しかし、上記のように立入禁止区域があるので、2024年12月現在、見られるのはここだけです。平らな石を長い辺を表面にして積んでいます。一見、安定感があるように思えますが、木の根の圧力や大雨の水の勢いなどにはそれほど強くないようです。そんな石垣が築城から500年以上経過しても見られるのは、本当に貴重だと思いました。

郭3の石垣

 来た道を戻り、郭1下の東腰郭に向かいます。この郭の下にも石垣が積まれています。ここも崩落の危険性があるために、腰郭の下への進入は禁止されていますが、調査のために草や木などが刈られ、石垣の一部が丸見えになっているところがありました。この石垣の変化を観察することで、雨などの影響で石垣の崩れる方向や長さなどを推測していくのかと思われます。

郭1東腰郭の石垣

 また、これ以外にも石積みが見られる箇所はいくつかあります。ただ、3郭や腰郭のように大規模な石垣でないため、案内板やパンフレットには書かれていませんが、よく観察してみると見つけることができますので、宝探しをするように探してみると面白いと思います。

郭1東虎口の石垣
郭1東面の石垣

枡形虎口

 郭1の北側には枡形虎口があります。もともとの地形を掘り窪め、内側の岩盤を直角に削って、城内に入ろうとする敵は90度の方向転換をしなければいけない仕組みを作っています。

枡形虎口(右下から城内へ入る)

 城外から入ってくる左右には石垣が積まれていたようですが、ここも崩落の可能性が大きいようで、発掘調査後は埋め戻し、土嚢で補強されています。また、直角に曲がる外側は、石垣ではなく、削られた岩盤が露出しています。

城外側から枡形虎口を見る(虎口の左右は石垣だった)
枡形虎口の削られた岩盤(緑味のある緑泥片岩)

大堀切・竪堀

 郭2と郭4の間にはクランクする大堀切、南の斜面には大堀切とつながる大規模な竪堀があります。大堀切は、その名前に反して、幅や深さがあまり感じられませんでした。逆に竪堀の方は、その角度と長さがしっかりと感じられました。

大堀切(右が郭2、左が郭4)
竪堀(下を向いて撮っています)

堀切(切通し)

 郭1と郭3の間で、もともとあった岩盤を削って、幅5mの堀切(切通し)が作られています。この切通しには橋が架けられていて、郭1と郭3の間を移動していたようで、それを再現した板橋が架けられていますが、通行禁止になっています。

現地案内板は「堀切」、パンフレットには「切通し」と書かれています。
切通しの岩盤(板状の節理がよくわかります)

郭1(本曲輪)

 郭1(本郭)は、二段構造の平場になっていて、南・北・東の3か所に虎口があります。郭1の上段には「小倉城跡」の石碑が建っていて、下段には掘立柱穴跡と礎石(埋め戻されていて、現在は見られません)が発見されています。また、南東面の土塁の内側には、鉢形城で見られるような雛壇状の石積み(埋め戻されていて、現在は見られません)が見つかっています。

小倉城跡碑(石碑が建つ場所が郭1の上段)
郭1下段、南東側の土塁(雛壇状の石積みが土の下にある)

 郭1の東側の土塁前は木が伐採されていて、東側の眺望があります。菅谷館や青鳥城、松山城、鎌倉街道(上つ道)の都幾川渡河地点などが見渡せます。

郭1から東側の眺望

比企城館跡群

 小倉城は、菅谷館、杉山城、松山城とともに、「比企城館跡群」として国指定史跡となっています。この地域は、古くは山内上杉氏の鉢形城、扇谷上杉氏の河越城の間に位置しているため、これらの城館はこの2つの勢力の「境目の城」として作られたと考えられています。しかし、築城主や歴代の城主など不明な点が多く謎が多い城たちです。

小倉城跡の幟(JR明覚駅前)

 小倉城は、小田原北条氏の重臣であった遠山氏、あるいは上田氏が城主であったと、後世の記録には書かれていますが、戦国時代当時の文献資料はありません。発掘調査からは、天文~永禄年間(1532~1570)頃が、城郭としてもっとも活用されていた時期で、天正年間(1573~1592)の後半には使用されなくなったと考えられています。

明覚駅(「関東の駅百選」に選ばれている)

 小倉城跡の史跡指定範囲は、ときがわ町、嵐山市、小川町にまたがっていますが、郭が形成されているところのほとんどが、ときがわ町になっているため、発掘調査はときがわ町の教育委員会が行っています。また、御城印もときがわ町観光協会が販売しているため、明覚駅の「駅前案内所ここから」で購入することができます。明覚駅でもレンタサイクルはありますが、JR八高線は運行本数が少ないので、東武線の嵐山駅を利用した方が便利だと思います。
 私は「駅前案内所ここから」で御城印を購入した後、菅谷館跡(嵐山史跡の博物館)へと向かいました。

訪問日:2024年12月27日
参考文献:「関東の名城を歩く(南関東編)」、ときがわ町教育委員会発行パンフレット

いいなと思ったら応援しよう!