ジョンヘイグ 「ああ、俺がやったよ。〇体がないのにどうやって逮捕するんだい?」
ジョン・ジョージ・ヘイグ (John George Haigh) は、イギリス史上で「アシッド・バス殺人者 (Acid Bath Murderer)」として悪名高い連続殺人犯です。彼は1940年代後半に6人から9人の人々を殺害し、被害者の遺体を硫酸で溶かすという恐ろしい方法を用いたことで知られています。ヘイグの人生は、一見すると教養があり魅力的な人物でありながら、その内面に隠された冷酷な犯罪者としての顔を持つという、非常に複雑なものでした。
1. 幼少期と家族背景
ジョン・ジョージ・ヘイグは、1909年7月24日、イギリスのヨークシャー州スタンフォードで生まれました。彼の両親は深く宗教に根差した信仰心を持つ厳格な家庭環境で彼を育てました。父親はプロテスタントの厳格な宗派に属しており、ヘイグは非常に厳しい宗教教育を受けて育ちました。家族は、外界の「罪」に対して非常に防御的であり、彼の幼少期は外の世界との接触を極力避けられるように管理されていたと言われています。このような厳しい宗教的な環境は、ヘイグの後の精神的な発展に大きな影響を与えた可能性があります。
ヘイグは幼少期に強い罪悪感や不安を感じることが多く、その後の人生においても、現実から逃避するために嘘をつくことや犯罪に手を染める傾向が見られました。彼は幼少期に尿失禁の問題を抱えており、このために自分が「罪にまみれている」と感じるようになり、これが彼の人格形成に影響を与えたとも言われています。
2. 青年期と最初の犯罪
青年期にヘイグは一度は普通の人生を歩もうとしました。彼はピアノの才能があり、奨学金を得て有名な音楽学校に通いましたが、卒業後は職業を転々とすることになります。安定した職業に就くことができず、詐欺や窃盗といった軽犯罪に手を染めるようになりました。彼の最初の逮捕は、偽造した手形を使った詐欺行為が原因で、1934年に有罪判決を受けました。
その後も詐欺行為を続け、何度か投獄されますが、服役中に化学に興味を持つようになります。特に硫酸の性質に関心を抱き、それが彼の後の犯罪において重要な役割を果たすことになります。
3. 殺人への転向
1940年代に入ると、ヘイグは単なる詐欺師から殺人犯へとエスカレートしていきます。彼は金銭的な利益を目的として、裕福な人々をターゲットにするようになります。彼の犯行は極めて計画的で、被害者を信用させ、財産をだまし取った後に殺害し、遺体を処理するという手法を採用しました。
1944年、最初の殺人を犯します。最初の犠牲者は、ヘイグの知人であるウィリアム・マクスワンという裕福な人物でした。ヘイグは彼を殺害し、遺体を硫酸で溶かして証拠を消しました。彼はマクスワンの家族に対しても同様の手口を用い、続けて彼の両親も殺害しました。ヘイグは彼らの財産を奪い、金融的な利益を得るために偽造書類を作成して彼らの資産を手に入れました。
4. 犯行の手口
ヘイグの犯行は一貫して残虐なものでした。彼は被害者を殺害した後、遺体を油のドラム缶に入れ、硫酸を注いで数日間放置しました。この方法によって遺体はほぼ完全に溶けてしまい、彼はその残骸を下水に流すという手口を取っていました。この方法が彼を「アシッド・バス殺人者」として悪名高くさせた理由です。
彼は「遺体がなければ、殺人罪に問われることはない」という誤った考えを持っており、この手口によって完全犯罪を成し遂げられると信じていました。
5. 最後の犯行と逮捕
ヘイグの最後の犠牲者は、未亡人のオリーブ・デュラン=ディーコンという女性でした。彼女は裕福で、ヘイグと仕事を通じて知り合い、彼を信頼していました。しかし、彼女が1949年に行方不明になった後、警察はヘイグに疑いを抱きました。彼の住んでいた工場を捜索した結果、硫酸で溶かされた人骨の一部や被害者の義歯が発見され、ヘイグは逮捕されました。
取り調べの際、彼は冷静に犯行を自白し、6人の殺害を認めました。しかし、その後も他に3人の殺人を犯していた可能性が指摘されています。
6. 裁判と処刑
1949年7月、ヘイグの裁判が始まりました。彼は法廷で、「自分は精神的に病んでいたため、責任能力がなかった」と主張しました。彼は夢の中で吸血鬼的なビジョンを見ており、血を飲むことで魂を解放すると信じていたと述べました。しかし、精神鑑定の結果、彼は正気であり、殺人を計画的に行ったことが明らかになりました。
裁判はわずか数日で終わり、彼は全ての殺人について有罪判決を受け、死刑を宣告されました。そして、1949年8月10日、彼はロンドンのウェンズワース刑務所で絞首刑に処されました。
7. ヘイグの影響とその後
ジョン・ジョージ・ヘイグの事件は、イギリスの犯罪史において今も語り継がれています。彼の冷酷な犯行手口や、科学的知識を駆使して遺体を処理するという方法は、一般社会に大きな衝撃を与えました。彼の名前は「アシッド・バス殺人者」として後世に残り、彼の犯行は数々のメディア作品や犯罪小説の題材となりました。
彼の事件はまた、法医学の発展においても重要な役割を果たしました。ヘイグが残したわずかな証拠から警察が彼を追い詰めたことは、当時の捜査技術の進化を示すものでもありました。