縁故主義と学歴社会
2018年5月18日のツイートより
> https://twitter.com/tomo161382/status/996359525904015362
ちょっと前の記事なのですが、思うところがありましたので。
日本は学歴社会という話をすると、いやアメリカも学歴社会だよ、という返事が返ってくるのはもう定番になってきたような感がありますが、この2つには大きな違いがあるような気がします。
採用活動において、アメリカ企業は職種を細かく分け、職種ごとに仕事内容を細かく説明しています。
例)
実際の採用では、応募者がその仕事を遂行するのに必要な能力を持っているか丁寧に確認します。
なので、学生生活で職務に直結した経験を積んでいることが大切になります。
大学は、採用のハードルを超えるための知識と経験を得るための場であって、学歴では何を学んだかが大切です。
それに対して日本は職種を細かく分けずに一括採用する方針を取っているところが多いようです。
大学ごとに何人採用するかの枠を持つ話も聞きます。
このシステムでは、大学の中で何を学んだかよりも、どの大学に通っているかということが重要になります。
言い方を変えると、アメリカの学歴社会は職能主義の反映で、日本の学歴社会は縁故主義の反映だと言うこともできます。
つまり、日本では学閥が縁故として機能しているということです。
従来の日本の大学システムは、入試の選抜が苛烈である代わりに、学生生活の自由度は大きく卒業が容易であるという特徴がありました。
これは、縁故としての学閥を形成する上では有利に働いたのではないかと思います。
学生に与えられた自由な時間を課外活動を通した人間関係の構築に使えるからです。
知的処理能力の高さは、すでに苛烈な入試によって担保されているので、このシステムは一定程度うまく機能していたと思います。
ところが、今は大学入試を知的処理能力のテストではなく、それ以外の能力の試験に置き換えようとしています。
いえ、すでにかなりの部分が置き換わってしまいました。
この状態で、縁故的学歴社会を続けるということは、知的処理能力に劣った人材を職務遂行能力の確認をしないままに採用するということになります。
これは日本企業の競争力を大きく削ぐことになる、あるいはなっているのではないかと危惧しています。
さらに、従来型の試験は苛烈ではありましたが、家が貧しく縁故に乏しくても、公教育の範囲内で努力をしさえすれば、裕福で縁故に富んだ人間とも伍して戦えるという公平性がありました。
しかし、公教育の範囲外の活動によって選抜するということは、家が貧しく縁故に乏しい人間にとって、圧倒的に不利な選抜が行われるということになります。
これは、格差を固定化するということだけではなく、生まれながらに不利な条件にいることで見落とされがちな才能を発掘し活用するという道がより細くなるということを意味し、人材活用の観点から日本全体の競争力が低下することにもなると思います。
もしも、真に大学入試制度を改革したいと思うのなら、企業の採用慣行からまず変革して、縁故主義から職能主義に移行するべきだと思います。
しかし、現状は、企業の経営層が自らの子女を安定的に有名大学に入れるための筋道を固めるための大学入試制度改革にしか見えないのは、気のせいでしょうか?