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悪霊
1.
僕はこの文章にこの名を冠することに、いささか抵抗を感じる。なぜならば、僕の一等尊敬するドストエフスキーの小説の名であるからだ。僕は「悪霊」を何回も読んだ。でも、その芸術性に比して、僕の文章の卑近さ、低俗性に何回も打ちのめされた。しかし、僕はこの文章を書きたいと思う。昔の人が「ペンは剣よりも強し」と言った。そこには、抵抗する相手がいて、抵抗する文章があった。でも、僕には抵抗する相手がいない。ただ書きたい衝動に任せて、「書く」しかないのだ、と思い知った。僕は書く。でも、断りを入れたいと思う。読者が小説にリアルを求めるならば、読んでいる小説を捨てればいい。小説は虚構なのだ。それならば、虚構は捨てて、実生活を歩んだらいい。また、小説に感動を求めたいならば、ケータイ小説を読めばいい。女子高生のリアルな感情を書いている。僕の文章を読んでくださった人はすぐわかると思う。僕の文章には感動がない。それは致命的な物なのかもしれない。現代日本には感動が溢れている。僕の感動できない文章は誰も見向きもしないかもしれない。しかし、文章が頭の中を巡るよりは、僕は書きたいと思う。
2.
小さい頃、といっても小学校4年生の時の話だ。
僕の家の裏庭の木の下に一匹の蝉が死んでいた。蝉の体は乾燥してからからになり、地面に対して横向きになって、身動きひとつ取らなかった。僕は、蝉の死体を右手で拾い、左手の掌にのせ、すこしの間観察していた。夏も終わりに近づいていたが、残暑があり、汗が額に滲んでいた。ぽたぽたと額から汗が掌に落ちた。でも、僕は飽きずにじっと観ていられた。なぜ、そんなに蝉の死体に興味を持ったのかはわからない。魂の抜け殻の蝉の体に僕は異常に見とれてしまった。蝉はまた動き出し、ミンミンと高らかに鳴きはじめるように僕は思った。でも、蝉は鳴かなかった。僕は何故だか、泣いた。
「死」に対して、「泣いた」初めての記憶だ。
3.
僕の家の隣には、僕と同年代の2人の姉妹の住む家があった。僕はその子達と仲が良く、よく一緒に近くの公園で遊んだ。鉄棒や雲梯やジャングルジム。ブランコ等。僕たちはずっと遊んでいられた。太陽が西の空に赤く沈んで、紫色の空になっても、僕たちは遊んだ。
ある日、妹の方がジャングルジムの一番上から落ちた。僕は、ちょうど、ジャングルジムの真下にいて、妹が落ちる瞬間を目の前で見た。
「ボキ」
という音がして、妹の右手は折れた。妹の右手はプランと力を失っていた。僕はその音を聞いても何の感慨も沸かなかった。ああ、折れたんだ。ということだけは認識できた。すぐさま、近くにいた大人が泣きじゃくる妹を連れて、病院に行った。後日、姉妹の親から、複雑骨折だったということを聞いた。
僕はそれから骨の折れる音が耳の中で鳴り止まなくなった。
4.
大学生のとき、僕の恋人が異常なくらい買い物をするときがあった。
化粧品、カバン、スカート。みんなブランド物の高価なものだった。彼女の目は異常なくらい見開いていて、血走っていた。僕は、「どうして、そんなに買い物するの」と言った。
彼女は「復讐よ」と言った。
でも僕にはなにへの「復讐」か分からなかった。
でも今はわかる。彼女は「人生への復讐」をしていたのだ。この不完全な世界に対する「復讐」だった。
彼女は、今は二児の母だ。無論、僕の妻ではない。今は幸せに暮らしている。
5.
高校生の時、友達が不良に憧れていた。
僕が見るに、その友達は不良には全然向いていなかった。そして、家族は至って平凡だった。彼はある時、髪を金髪にして、制服の裾をいじった。
彼は反抗する相手を探して、いつも目をギラギラさせて、まわりを睨みつけていた。でも、本物の不良になるには彼は優しすぎた。
そして中途半端に反抗したまま、他校との喧嘩に巻き込まれて、運悪く頭を鉄パイプで殴られて、そのまま死んだ。
彼にこの文章を贈る。
6.
知り合いにある短編作家がいる。彼は短編しか書けなかった。
「長いのを書いてみたい」といつも口癖のように言っていた。でも彼は作品の膨らませ方を知らなかったし、切り取る文章しか書けなかった。他に仕事をしていたせいで、集中できなかったという理由もある。
ある時、彼は狂った。
僕が彼の家を訪ねると、家の中はゴミで散乱していて、電気を付けずに、暗い中でソファに一人座って、何時までもテレビを見続けていた。
彼は今、精神病院にいる。
僕は彼の作品が好きだ。
切なさとリアリティがある。
でも彼は何時まで経っても、自分の作品を好きになれなかった。
7.
祖父がアルツハイマーにかかった。僕はアルツハイマーがどんな病気か、そして原因がなにかは知らない。ウィキペディアで調べる気も起きない。
ある時、祖父は僕の顔を見て、「田中くん」と言った。
僕は「孫の智也だよ」と言った。でも、祖父はずっと僕のことを「田中くん」と言い続け、昔の思い出話を続けた。
いずれ、田中くんの思い出も消えていくのだろう。僕は祖父がアルツハイマーにかかったことよりも、田中くんの思い出が消えていくことに悲しさを感じた。
田中くんはもうこの世に存在しない。
8.
夜のメリーゴーランドに憧れる。
僕は回転木馬に乗り、父や母や姉に手を振る。
彼らは、手を振り返す。
僕はいつまでも、いつまでも同じ所をぐるぐる回る。
僕はいつもそこで目が覚める。僕の目から涙がこぼれている。ああ、夢だったんだ。
遠い昔の愛のある風景。
これはメタファーだ。
9.
押入れに篭って、生活する男の小説を読んだ。
食事も、睡眠も、全て押入れの中で行う。最後、彼は自殺する。
そこには感動もなにもない。その小説で何が言いたかったのかはわからない。
でも教訓はある。
社会との断絶は、身を滅ぼすのだ。僕たちは社会とうまく付き合っていかなくちゃならない。僕はそう思った。
どんな小説にも教訓はある。
10.
午前2時に目が覚める。
辺りはどうしようもないくらい暗闇で、なんともしがたいくらい静寂だ。
もう一度寝ようとしても、寝られない。目は瞼が無いくらい覚めていて、頭は氷のように冴え渡っている。
ホットコーヒーを飲む。コーヒーの苦さが喉元を過ぎる。
11.
午後3時のニュース。
今日午前8時頃、大阪の天王寺区で通り魔による殺傷事件がありました。被害者は会社員の……さん29歳。胸を3回刺されて死亡。そこに通りかかった、会社員の……さん55歳が右腕を刺される重傷を負いました。加害者は無職……22歳。その場で駆けつけた警察官に取り押さえられました。被害者と加害者の面識はなかった模様です。
もう一度繰り返します……。
A「怖かったわ。いきなり刃物を振り回したんだもの」
B「顔が真っ白で、目はつりあがってました」
C「死刑にするべきです」
12.
初恋の話をする。中学生2年生のことだ。
彼女はピアニストになりたかった。放課後の音楽室でショパンの「革命」を何回も何回も繰り返し練習していた。しかし、美しい旋律とは裏腹に彼女の性格は悪かった。他人の悪口を言い出すと止まらなかった。でも何故だか、僕は彼女に惹かれた。
一度、彼女の手に触れる機会があった。英語の授業で配られたプリントを、後ろに座っていた彼女に渡すときに、彼女の手に一瞬触れた。彼女の長い指が僕の手の甲に触れたのだ。僕はその英語の授業中、ずっとその甲を眺めて、授業に集中できなかった。
結局、僕は彼女に告白は出来なかった。
彼女は今、グァテマラにいるらしい。
13.
古代演劇では仮面が用いられた。仮面を付けて、踊り、踊り、そして、踊る。
現代、僕たちは無色の仮面を付け、踊っている。
踊るんだ。
どこからか声がする。
14.
会社帰りの電車の中から、3階建てのビルが目に映る。
一面張りのガラス越しに、小学生が算数の勉強をしている光景が目に入る。みんな頭に鉢巻を巻いて、一心不乱に勉強している。自分がやりたくてやっているのか、親の期待に沿うようにしているのか僕にはわからない。
僕は余計疲れた。
15.
酒を毎日飲んでいた。
アルコール中毒の一歩手前だ。手は震えていなかったが、酒の渇望感が仕事中も襲っていた。酩酊した時だけ、僕は「僕」を取り戻せていた気がする。
僕は一体何者だろう。
僕はウイスキーのロックを飲んだ。
15.
大学生のとき、買い物をよくする恋人が言った。
「あなた、悪霊にとりつかれてるわよ」
彼女は霊感があって、よく友達の部屋にいっては、この角に塩を撒いておくといいわとか言う彼女だ。
僕は霊の存在を信じていなかったが、僕の背中に悪霊が付いている想像が止まらなくなった。
トイレの鏡で、何回も背中を見たが、霊の存在は見えなかった。僕には勿論、霊感があるわけではない。でも何をするにしても、悪霊が僕の背中に付いている気がした。
16.
僕の周りには悪いことが起こった。今まで、いいことなんかあった例がないが特に悪い兆候だ。
まず、交通事故を目の前に見た。車の前面と対向車の前面が衝突したのだ。相互のフロントはぐちゃぐちゃになっていた。フロントガラスには血が飛び散っていた。明らかに即死だった。僕はその場を立ち去った。
17.
アルツハイマーにかかった祖父が死んだ。
小学生の時に、父の代わりにキャッチボールを教えてくれた祖父だ。無論「田中くん」との思い出は消えていた。何回か、ご飯を食べたかどうか忘れ、夜中に徘徊した祖父。家族は祖父が亡くなって、寂しさ半分、ほっとした感情半分だった。
祖父の冥福を祈る。
18.
グァテマラから手紙が届いた。初恋の彼女からだった。なぜ、僕の住所を知っていたのかは知らない。
「わたしは元気にしています。グァテマラはいいところです。もしグァテマラにくることがあったら、わたしを訪ねてください。住所を下記に書いておきます。
この2行の文章を僕は何回も読んだ。そして、破り捨てた。
初恋は初恋だから美しい。
19.
短編作家の友達が精神病院を退院した。
すこし、目の輝きが薄れていたが、病気になる前の彼を取り戻していた。
彼は、病院で100枚に及ぶ小説を書き終えていた。
暗い内容だったが、彼の性格が表れているように「愛」が書かれていた。彼は何かを乗り越えたんだろうと思う。僕は、彼と握手をして、その場を立ち去った。
20.
ある、晴れた日曜日、思い立って、遊園地に一人で行った。勿論、メリーゴーランドに乗りにだ。一人で乗る恥ずかしさから、誰とも一緒に行く気にならなかった。
僕は、メリーゴーランドのチケットを1枚買って、馬に乗った。周りは、5歳くらいの子供たちが数人乗っている。
メリーゴーランドが動き出すと、馬は上下した。僕は乗りながら、ぼんやりと風景を眺めていた。父や母や姉が手を振る。僕は手を振り返す。勿論、小さい頃の僕もその場に含まれている。なにも恐れることのなかった子供。もうぐるぐると同じ所を廻っている感覚は無くなった。
僕は泣いた。
21,
僕はウイスキーの瓶をキッチンでたたき割った。
22.
午後3時のニュース。
台風は日本列島を駆け巡りましたが、今日午後2時北海道を北に抜けました。今のところ、甚大な損害はない模様です。
各地で発令されていた大雨・洪水警報は解除されました。
もう一度繰り返します……。
23.
僕は、いま付き合っている彼女に電話した。
「もしもし、結婚してくれないか? うん。突然でびっくりしているのはわかる。でも僕は君がいなくては、生き延びれない気がする。うん。大層なことかもしれないが、僕は心からそう思っている。
うん。返事はいつでもいい」