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自分の中心で愛を叫んだ獣

先日、ザ・コンソーシアムモデルの合宿に行って心が動いたという話を書きました。

自分の感情を記事に書き落とすということ自体、とても心が洗われるというか、心地良いことなのですが、さらに、その振り返り会があったので、その感想も書こうと思います。


何を振り返ったのか

合宿の振り返り。
一体何を振り返ったのか。

結論、参加した人が何を感じ、どう変わったのかということをみんなで言い合う会でした。

記事を読みながら、
「合宿を通じてこういう気づきがあった」
ということをシェアして、それに対して
「私はこう感じた」とか「深く知れて良かった」とか
そういうことを言い合う。

だから、記事で書いた内容からさらに自己理解が進むわけですね。

あなたはさ、愛の人だよね

私に関しては、皆さんから
「なんで参加しているのか分からなかったけど、凄く熱い人だと分かった」
とか
「もっとクールだと思っていたけど、情熱がある人だと思った」
とか言葉をいただきました。

まずその感覚自体が意外というか、私に情熱なんてあるんだというのと、それが伝わっていることに驚きでした。

で、最後に主催の青野さんが
「あなたはさ、愛の人だよね」
と一言。

愛の人?
どういうこっちゃ?

「あなたはさ、愛があふれているのよ。
でなければ、会社でメンバーが辞めるのを悔やんで泣くはずがない。
愛が深くて重い。だからなんでも一生懸命にやってしまう。
そうやって駄々洩れる愛を必死に抑えようとしているから、クールを装ったり怖いように見えるんじゃないの?」

私にとって「愛」とは

「愛の人」というのは、しっくりくるような来ないような(笑)
でも、確かに「愛」というのは自分の中でキーワードになっている気はします。

ちなみに、私、嫌いな人って、実はいないんです。
苦手とか面倒くさい人ってのはいますが、嫌い!という人はいない。
だって、皆それぞれいい面悪い面があるから。

でも、相手から嫌われるととても傷つくのですね。
私はこんなに頑張っているのに!なんでそんな事言うの!と。
つまり、メンヘラ。
うん。薄々気づいていましたが、まあ、そうだよなって。


ただ、どちらかというと溢れるというより自分が求めている感じがしますね。

幼少期から、いわゆる「無償の愛」というものを受けた感覚がない。
どこかずっと一人で、自分の世界を守るために必死に戦っている感覚。
その根底には、「愛がほしい」という渇望があるんじゃないかな。

だから、自分が愛を受けるために、必死に他者に愛を与えようとしているのかもしれない。
あるいは、愛をくれる人たちがいなくなるのが寂しいとか。

いずれにせよ、確かに「愛の人」ではあるのだけど、それは無条件に私が他人に渡したいというよりは、「自分が欲しいから・満たされたいから渡したい」みたいなことなんじゃないかなと思います。

でも、他人に愛を渡すことで自分が満たされるなら、それはまぁ確かに愛の人か(笑)

もうちょっと自分にも愛を

何だろう、やっぱり根底には、「愛がない」とか「戦わないと平穏は得られない」とか、修羅の国的な思想が流れている気がします。

それはそれでこれまで生きることはできたのですが、ちょっともうしんどいかな。
だから、別の生き方を模索する時期なのかもしれません。

それで言うと、もっと自分に愛を注いでも良いのかなと。

いや、やり方は分からない(笑)
でも、完璧主義にならないとか、落ち込んでいるのも人生の一部と思うとか、自分のペースを大切にするとか、そういうことはやって良いと思うのです。

いわゆるシャンパンタワーの法則ですね。
まず自分が満たされないと、他人にも愛を注げない。

私はこれまで、他人に注ぐことで、自分も満たされると思っていた。
それはそれで一定あると思うのです。
でも、なんかちょっと違うというか、別のやり方もあるっぽい。

それが何かは分からないのですが、これまでの生き方から少し変わって、別の生き方を選択することはできるのかもしれない。
そんなことを思いました。

重いのよ、、愛が。
それが悪いってわけじゃないんだけど、不健康な愛の渇望からは卒業しようぜって。
そのままのあなたでも生きていて良いと、誰かから愛を与えられていると、信じ感じればいいじゃないか。

あぁー、しんど。
血圧が上がる。

こういうことに過剰に反応するのは、「あなたを愛しています」と言うメッセージを受け取ってしまうと、それまでの自分が壊れてしまうからなのかもしれない。

ここまで頑張ってきた自分が、壊れてしまいそうで。

あー、泣きそう。
なんか泣きそう。
ずっと寂しかったんだな~。

ということで、やっぱり良い合宿でした。
また次回も参加したいな~。

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