神風特攻と「命懸け」の違いは?
太平洋戦争末期の旧日本軍による神風特攻機は当然その自殺的な意図の作戦および機体設計から多くの批判に晒されてきた。僕もそう思う。
一方で、そもそも戦争というものは兵士が「死ぬ気で」突撃するものだ、という気がしないでもない。いろいろな映画を見ていると、「これは特攻ではないか?」と思わせるような場面が少なからずあり、その度に特攻の国の国民としては少なからず戸惑う。たとえば、死を覚悟して爆弾を手に敵を巻き添えにする(『エイリアン2』のバスケスなど)。戦闘機で敵鑑の艦橋に突っ込むことになる(『スターウォーズ ep.6ジェダイの復讐』もっともこの例は偶然そのような形になった感があった)。そのた命懸けの攻撃とその結果の死を描いた作品は枚挙にいとまがないであろう。
戦争である以上、相手は殺しに来ているので、こちらも殺される危険は覚悟の上のはずだ。兵士であるにも関わらずに戦闘から逃げることは敵前逃亡として死刑にすらなる。北朝鮮に亡命したジェンキンス氏が米軍によって「敵前逃亡」の罪をかけられており、彼が解放されてからその罪をどう扱うかという議論になったとき、けっこう驚いた覚えがある。逃げだすことに死で報いなければ釣り合わないくらい、戦場に止まることは過酷なことなのだと感じた。
それで、「特攻はなぜ非人道的なのだろう?」ということがずっと疑問だった。もちろん、「死ぬかもしれない」と「必ず死ぬ」の間にはかなりの隔たりがあるだろう。しかしながら、「生命を懸ける」という行為の中に、人々がある種の英雄的な美しさを感じていることは、やはり映画などを見る限り明らかだと思う。
あるいは個人がその覚悟においてするべき行為を兵器という機械の形に落とし込んだことが残酷であるかもしれない。特攻兵器を立案した者、実際に設計した者、作った者というのが、実際に特攻で生命を落とした者の他にいる、ということが非人道的なのかもしれない。
実際の神風特攻機は1944年10月のレイテ沖海戦で初めて運用され、そこでは多大な成果を挙げたと記憶している。ほか、1945年3月からの沖縄戦でも持久戦を取る日本軍が米軍上陸部隊の侵攻に耐える間にそれを援護する米艦隊に本土からの飛行隊が特攻をかけて少なからぬ被害を与えた。米軍からすれば、上陸部隊が沖縄を制圧できないでいる間、援護のために退避できない艦隊に特攻飛行機が日々襲ってくるというもので、ものすごい恐怖だっただろう。
あるいは「玉砕」という行為。これはおそらく敵軍にしてみれば対処しやすい部類の戦術だっただろう。陣地を固めているところにわざわざ相手が突っ込んで来てくれるのだから塹壕から機関銃で掃射すればいいだけではないか。玉砕はたぶん、特攻より戦術的に意味のない行為だ。たぶん、「死に花を咲かせる」ような意味があるのだろう。
しかし、こういった特攻や玉砕をできなかった者はどうなるだろう? 死の覚悟をして、同僚に讃えられ、出撃した挙句に死ねなかったら? ずいぶんと面目のない思いをするに違いない。
記憶に残るところでは、映画『太陽の帝国』(スピルバーグ監督、1981)で「特攻機に乗り込んだ少年兵が飛行機の故障で出撃できない」というシーンがあった。覚悟をくじかれた少年の、なんと悔しそうなことか!
『硫黄島からの手紙』(イーストウッド監督、2006)では持久戦をとる栗林中将に反対する伊藤大尉(中村獅童が演じる)という男が出てくる。栗林が軽率な玉砕を禁じたにも関わらず、伊藤は玉砕すべく飛び出すが、なんと後ろに部下がついてこない! しかも、結局死にきれない!という可哀想なシーンがある。まさに生き恥である。
もっとも、栗林らも散々米軍を手こずらせた後で、万策尽きて結局は玉砕した。「死に時」というのがあるのだろうか、と感じた。
日本的な美学としては、「自決に他者を巻き込まない」ということもあるような気がする。自決はあくまで本人の意志によらなければならない。強制的な自決はたぶん美しいものとはいえないからだろう。明治天皇が崩御した際の乃木大将の殉死が美しいのは、彼が自らの意思でそうしたからだろう。夫人もこの際に自決しているが、こちらは大丈夫だろうか?と不安になる。司馬遼太郎だったか、乃木の殉死が責任感の高い軍人の鑑として米軍にも高く評価されている、とかいう話を聞いたこともある。『戦場にかける橋』(デヴィッド・リーン監督、1957)ではアメリカ人は自己犠牲的な精神を嫌う存在として描かれているので、意外な気がする。
たぶん命をかける行為、自己犠牲そのものを賛美する気持ちは洋の東西を問わない。そういえばイエスも全人類のために自らを犠牲に差し出したではないか。基準としては自らの意志でそうしたか、強制されてそうしたか、ではないだろうか。そういう意味では「特攻はありだが、"特攻兵器"はなし」というのが結論になる。自分ならば?たとえば"誰かに強いられて"死ぬような危険に直面させられたら抵抗するだろうが、"自分から"誰かのために死ぬような危険に直面しようとするときは、どうか止めないで欲しい、とは思う。たとえ結果が無様であっても。それは人間としての自由意志の問題だと思う。
日本はいまだに自殺率の高い国である。僕自身も、よく生きていたな、と思い返す。さて、死ぬべき時が来たならば、自分は潔く腹を切れるだろうか?