足にボルトを入れない千松信也さんと、生きることのキリのなさ

むかしNHKのドキュメンタリーか何かで、罠猟師の千松信也さんのことを紹介しているのを見たことがある。
千松さんは京大に入学してから狩猟に興味を持ち、卒業後に京都で猟師になった方で、『僕は猟師になった』(リトルモア、2008年)を読んでその生き方に感銘を受けた。この本は2020年に映画化もされたようだ

このドキュメンタリーで、千松さんがイノシシとの格闘で足の骨に負った傷に「ボルトを入れない」という選択をしたことがずっと引っかかっていた。その当時はなぜそのような選択をしたのか分からなかったからだ。ボルトを入れなければ足の骨の負傷はやがて千松さんの健康を脅かすだろう。少なくとも日本ではそれほどお金のかからないことではあるだろうし、やったほうがいいのではないか?なぜそのような選択をあえてするのだろう?その時はそのように思った。

しかし、それを観てからずっと何年も時間が経ち、ようやく自分なりに千松さんの気持ちが分かってきた気がする。いや、当の千松さんがそう考えているかはもちろん分からないのだが。

この数年、コロナ禍やウクライナ戦争、イスラエルのガザ地区侵攻など、死について考えることが多くなった。近いところでは能登半島の地震で多くの人がいまだ苦しい思いをしている。人が死ぬような目に遭っているときに、自分が安全な場所でそれを見ているというのは妙な気分だ。情報だけが入ってくるだけに「自分には何もできない」という気持ちだけが募る。一方で、古来から人はつまらないことで死んできたともいえる。本来人はつまらないことで死ぬ。戦争や悲惨、病気でも死ぬが、ごくつまらないことで突然死ぬ。理由を問うても仕方がないことで。
人が死ぬことに悲しみや怒りを感じることができるだけでも現代は幸せかもしれない。あるいは、見なければ何も感じずに済んだものを見させられているということでは不幸かもしれない。

さらにいうなら以前なら「仕方のない死」と受け止められていたものが、「避けられたかもしれない死」となった分、現代は不幸かもしれない。たとえば医療技術の発展で救われる命は増えた。しかし一方で命を救えなかったことへの罪も増えた。たとえば医療が高額になれば「お金をはらえない」という形で死ぬ人も出るだろうし、実際にいるのだろう。逆にお金を持っていれば臓器移植などを受けて生き延びる人もいるだろう。医療過誤で死ぬ人もいるが、そもそも医療を受けられない地域の人と比べたら医療を受けられるだけ幸せかもしれない。たぶんそう考えるとキリがない。

千松さんが「ボルトを入れない」という選択をしたのはそういうことに対する抵抗ではないのか?と思う。全てはキリがない。
「イノシシによって怪我を負わされた」ことは数多く命をうばってきた千松さんという猟師にとって避け難い運命であって、それは怪我をしなかったとしても彼を訪れたであろう老いや衰え、その他の病気と等しいものと思えたのかもしれない。そうであるならば、たとえそれを簡単に廉価に解決する手段があったとして、それに簡単に手を出していいものか、受け入れるという選択肢もあるのではないか。やがてくる死を受け入れるために。

これから未来にかけて、技術の発展により、全て取り返しのつかない怪我や失敗は取り返しのつくものになり、やがては不老不死でさえ人類は手に入れるだろう。いくら遠い未来であっても、いずれそうなるだろう。
しかしながらそれは果たして人類の幸福につながるだろうか? 今生きている個人の、自分自身の幸福につながるだろうか? 人はやがて死ぬ。人は生まれ、育まれ、学び、成長し、衰え、老い、やがて死ぬ。人だけでなく、生物全てが、万物全てが生成し滅ぶというサイクルを辿る。それが自然というものだ。
強いて生命を、何かを永遠に保とうとすることには不自然なものがある。自分は医療技術の発展を、科学の発展を必ずしも否定しない。しかしながら、現代、科学技術の発展を見直す時期が来ているような気がする。








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