2020/01/23(木)リオパラリンピック・椎名林檎・ばよえ~ん……4年ぶりに「人生を変えるかもしれない気づき」がやってきた。
ごくごくまれなことではあるが「これは人生のターニングポイントになるかもしれない」と心から思えるような大きな気づきや出会いを得ることがある。そんな出来事が、昨日・今日と立て続けに起こった。
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前回「これは!」という気づきを得たのは2016年の9月17日から18日にかけての深夜のことであった。もうかなり前の話だ。
その頃、ぼくは心身ともにきわめて具合が悪かった。
何もできることがなく、鬱々とした気持ちでなんとなくテレビをつけると、リオ2016パラリンピックが放送されていた。
競技は、男子走り幅跳び(切断など)であった。調べたところ、17日の22時と18日の6時にそれぞれ別の区分の同競技が行われていたらしいのだが、このどちらを観たのかまではわからない。
パラリンピックなので障害ごとに区分があるのだが、ぼくが観たのは「切断など」なので、アスリートたちは義足をつけて競技をしていた。
ときに何も思うことなく「やっていたから」という理由でただぼんやりと眺めていたのだが、名も知らぬ黒人選手が走り、跳んだ直後「これは!」という、衝撃としかいいようのない気づきを得た。テレビをつけてからわずか数分の出来事だった。
この件についていま語れるのはここまでだが、願わくば、このとき得た「気づき」を、いずれ生涯の仕事にしたいとすら思っている。
4年間、片時も忘れることなく、ずっと思っている。
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そして、ここからが昨日と今日の話。
まず、昨日。
深夜、知り合いの知り合いが椎名林檎の話をネットでしていた。
ぼくは椎名林檎の1stの「無罪モラトリアム」と2ndアルバム「勝訴ストリップ」が大好きで、彼女のデビューから数年はかなりのファンだった。
ただ、3rdアルバムの「加爾基 精液 栗ノ花」あたりからちょっとついていけなくなってしまい、それからというもの、椎名林檎は「若いころ大好きだったし、いまも好感は抱いているのだけれど、なんとなく聴かなくなってしまったアーティスト」という位置づけへと徐々に落ち着いていってしまった。
そんな折、予期せぬ形で唐突に椎名林檎のことを思い出す機会を得たことで「久々にちょっと聴いてみるか」と思い立ってYou Tubeにあったライブ映像を観てみることにした。
寝る前の時間帯だったので、片付けや着替えをしながらの「ながら視聴」だったのだが、吹っ飛ばされた。電撃を浴びた。
「これは!」
椎名林檎の歌とパフォーマンスが「表現をするとはこういうことですよ」「何者かになりたいのなら、こうしなければいけないのですよ」ということを一から十まで一気に教えてくれた。
何年も、いや、何十年も迷って迷って迷子になっていたことを一瞬で教えてもらった。これもまた、願わくば生涯の仕事の道筋にしたい。
リオパラリンピックでの気づきとは違い、こちらは今日からでも実践できることなので、あとはやるかやらないかだ。
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そして、今日。
隔週木曜午前ミーティングの場にて、雑談のひとつとして「この一ヶ月ほど、やらないといけないことやらトラブルやらが大量発生して大変でした」ということを話した。
すると、ファシリテーターさんから「ぜんぶ一人でやらなきゃって思っておられるから大変なのでは? 他人や場に頼っちゃった方が時間的にも労力的にも心理的にも楽なのではありませんか?」という指摘を受けた。
「……あぁ」
言われてみればその通りだ。
事実、2018年8月に大きな仕事のオファーをいただいてからというもの「ちゃんとせねば」「かくあらねば」ということで頭がいっぱいだった。自分よりはるかに若いスタッフが参加していたこともあり「示しにならねば」という思いも……いや、これは嘘だ。「ナメられたくない」「バカにされたくない」というのが本音だ。ここで取り繕っても仕方がない。
いずれにせよ、大役を得たからには大役にふさわしい人物であらねばと思い、それが「ぜんぶ一人でやらなきゃ」につながっていたのだ。昨年7月に長年お世話になっていた場所がなくなってしまったことが、この気持ちにさらなる拍車をかけた。
「もう誰も頼れない」
「誰も代わってくれない」
こうした思いは負荷となり、時には成長の糧になってくれたものの、多くの場合、プレッシャーと化して自責・自罰を生む温床となった。
それが、わずか数分の会話によって、氷解した。
「もっと人を頼ってよかったのでは?」
「いや、どう考えても頼った方がよかった」
「そうか。そうだったのか。じゃあ……今日から頼る方向に切り替えていこう」
いままで目を塞がれていたのではと思うくらいに、あっけなく考えが変わった。
本当に、驚くほどあっけなく、考えが変わった。
となると「では、なぜ人に頼ろうとしなかったのだろう?」という疑問を抱くのは自然の流れというもの。
さすがにこれはその場ではわからなかったので、帰宅した後に改めて考え直すことにした。
そしたらまぁ……「あー!」「あー!」「あー!」とわかるわかるわかる。
長いあいだ風呂に入っていなかった人間が垢すりをしたときのように、ボロボロボロボロといろんなものが落ちてくる。腑に落ちる。目から鱗が落ちる。ボロボロボロボロいろいろ落ちてきた。
かくして「これは!」が「これは!」を呼ぶ大連鎖が大発生。「ぷよぷよ」だったら「ばよえ~ん」「ばよえ~ん」「ばよえ~ん」「ばよえ~ん」となっていたところだ。
この大連鎖により、2014年後半あたりからずっと疼きつづけていた心の傷への処方箋までもが見つかってしまった。このまま化膿し続けて一生治らないのではとすら思っていたので、まさかこういう形で突破口ができるとは思わなかった。人生生き続けてみるものだ。
さて、この「傷」というのはいわゆる「こじらせてしまった承認欲求への客観的対処法」なのだが、これについて書こうとするとさすがに今日は時間が足りないし、ものがものだけにもうちょっと寝かせてからにしたい。続きはまたいずれ……。