2019/11/07(木)「調子がよい人」が「調子に乗った人」にならないようにするためには?
今日も今日とて体調が悪い。
って、何日同じ話をしているのだ! という感じだが、悪いんだがら仕方がない。
今日も15時くらいまでまともに動けなかった。
泊まりの用事があるので這うようにして出かけたけれど、約束の時間には10分ほど遅れてしまったし、今もまだ体調が悪い。
今日の19:30にNHKで放送された「所さん!大変ですよ」という番組で「天気の影響で頭痛になる人が実は1000万人もいる」という話をしていたが、そのつらさはわたしもなんとなくわかる。
痛みこそないものの、今まさに、つらくてしんどい真っ最中だからだ。
逆に「痛い!」といったわかりやすい苦痛ではなく、言語化しにくい苦痛なので、説明することもわかってもらうことも難しいという別のつらさもある。
なんというか……鉛の服を着ているかのように身体が重くて、自動車酔いの軽いやつみたいな(あるいは、下品な表現になるが、金玉をごくごく軽く、しかし延々と蹴られて続けているかのような)気持ち悪さがあり、熱はないのに風邪のような悪寒がして、いくら寝ても元気にならず、それどころか悪夢をたくさん見るようになり、気は塞ぎ、憂鬱で、やる気も出ず、厭世的になり、人の悪いところにばかり目がいくようになり、恨みつらみや拗ねいじけの念が湧きやすくなり……って、頑張って言語化してみたらだいぶツラいなこれ! 呪いか!?
今までわたしはこの状態を「腐った海鼠」と呼んでいた。
ただでさえぐにょーんと横たわって動かない、生きる気概がまるで感じられないのが海鼠という生き物だが、それがさらに腐って腐臭を漂わせている。
この救いようのない、汚物めいたものこそが、気候の変化でやられている時の俺なのだ、というセルフイメージを持っていたのだが、たったいま言語化してみたことで、どうやらこの不調にはもっと複雑な味わいがあることがわかった。いや味わいたくねぇよそんなもん!
……そう、味わいたくない。
できることなら、エブリデイ元気。エブリデイ全力でいたい。
しかし、この、毎年不定期で数回訪れる不調によっていいことがひとつあるとすれば、それは「慈悲のこころ」を思い出すということだ。南無南無。
「おいおい、さてはスピリチュアルだなオメー」と思われたかもしれないが、そういう話ではない。
心身が好調の時には「努力」をするのは容易い。
追い風を背に受けて船を走らせているようなもので、イケイケゴーゴーである。
しかし、こういう時勘違いしがちなのは、自分が「努力」できているのは全部自分の「手柄」だと思ってしまうことである。
本当は、さまざまな助けや、幸運や、流れのよさといった「自力」ではないものから力を得た上での「努力」なのに「これはすべておれがえらいからだ」と勘違いしてしまう。
すると、どうなるか。
自分と同じようにできない人を「劣った人」とか「駄目な人」「無能な人」とか見下したりしはじめる。
「なにかあれば、自分も『できない側の人』になるかもしれないんだよな」という「謙虚さ」と「想像力」を喪失する。
つまり「調子がよい人」だったはずが「調子に乗った人」になってしまうのである。
ジェットコースターと同じく(そして、我々にとっての気圧差や寒暖差と同じく)「調子に乗る」というのも、より高い所から落っこちた時の方がダメージが大きい。
弱者と化した自分自身へのショックもさることながら、調子に乗っていた時に傷つけてきた人たちからの袋叩きという追加オプションが待っていることもおおいにありえる。
SNSが発達して、私刑がよりカジュアルに行えるようになった現代では、とくに。
それを考えると、定期的に「悪い調子」になって「ああ、調子に乗っていた。俺もまだまだだなあ。弱いなあ」と謙虚になることで「自分より下に見ていた人たち」への反省の念が湧き、そうした人たちへの理解や共感についても想いを馳せるようになる。
「オレは強い! ゆえに弱者は死ね!」という世紀末モヒカン的スタンスが取れないことを再確認する機会を得ること。
これがかえって「弱い自分」「弱い他人」を認め、寛容に受け入れる「慈悲」を養うことになる。
そして、この「慈悲」こそが、調子に乗って、ひとたびそこから落っこちたあとのダメージを軽減するクッションとなる。
そう考えると、先月イケイケドンドンだったのが急ブレーキをかけたかのように大不調という現状も「慈悲の涵養期間」として受け入れる気にもなるというものだ。
……いや、本当はならないんだけど。
しかし、ただ調子が悪いっていうのもシャクなので、なにかしら、少しでも身になるものを得てやろうという、やせ我慢の精神なのである。