見出し画像

国士舘大学生時代

ブラジル留学から日本に帰って来て、少しの間これからどうして行こうかと色々な人に相談したり、考えた。自分がブラジル🇧🇷で見て学んで気付いたことがあった。
意図的にトレーニングをさせることで、もっといい選手を育てられるんじゃないか、と。もっとフィジカル的な知識やサッカーの理解を深めたい、そう思って日本の体育大学に行きたいと思い、大学のことを調べたり聞いたりした。
年が明け大学受験が始まった。滑り止めも含めて7大学を受験したと思う。
その中で、高校のサッカー部の南谷先生の母校国士舘大学の短大なら合格の可能性が高い、途中で短大から体育学部に編入できるという選択肢があることが分かった。
そして、無事に国士舘大学短期大学部に進学が決まった。すぐに、入寮の手続きを行い160名しか入れない寮に運よく(当然南谷先生が大澤先生に頼んでくれたと思う🙏)入れた。
入学式前の4月に入寮し、2人部屋の先輩が福島県出身の白川先輩となった。まぁ、入寮前にはいろんな方々から国士舘伝説をチラッと聞いていたので覚悟はしていたが、先輩たちもすごく優しくてすぐに周りの仲間が増えていった。
ただ、俺は2年遅れて入学してるので自己紹介の時にどうやって自分のことを伝えようかだいぶ試行錯誤した。
先に年齢をバラす(笑)か、あえて同級生のフリをするか。日大三島高校時代の同級生の吉村が3年生にいたので、バレるのは時間の問題だった。
まぁ、でもそこは割り切って1つ上の1こ下(⁉︎)の先輩には『◯◯さん』と呼んだし、同じ年の2こ上の先輩から『おい冨田、あれやっとけ!』と言われても『はい!』と言えるようになった。
今考えると、先にブラジル留学していた経験が相当後に力を発揮したことは言うまでもない。
先輩後輩の文化がない、年齢なんて関係ない実力社会、死にそうになった経験...すべて受け入れて4年間楽しく大学生生活を送ることになる。
まぁ、ここからは4年間の出来事や思い出を書くだけで5投稿ぐらいしないと完結出来ないけど、ほとんどはここにかけないこと(笑)だから1投稿で終わらせよう。

もともとプロサッカー選手を諦めてブラジル🇧🇷に指導者になるために留学をしたので、国士舘大学サッカー部でもコーチとしての勉強をしたいと大倉さん(当時寮の舎監&コーチ)や大澤先生(当時の監督、現大学理事長)にも伝えていた。
ただ、大学サッカー部ルールで原則毎日練習に出ることが条件だった。なので、大学の授業が終わり当時5グループあったグループのC2という下から2番目のチームに所属して毎日練習をし、自分の練習が終わるとその後のトップチームの練習を見学し、必死に練習メニューや気付いたことをノートに書き込んだ。
ある日、スタンドから練習を見ていた大澤先生が『おいトミ、熟語とは何だ?』と突然質問してこられた。俺は(来た!)と思った。カリスマ性ハンパない大澤先生は、言うこと成すこと次元が違うからいつも周りの人たちの空気が一気に変わることがある。
すかさず、『そうですね〜熟語ですか、ある言葉と言葉が合わさってまた違う意味を持つってことですかね〜😅』と答えると、『違う意味か...。』
とそこで会話が終わり、大澤先生はじっとグラウンドの練習を見つめていた。
(ヤバい、正解は何だ?何でそんな質問して来たんだろう?)謎が深まるばかりだった。
大学に入学して3ヶ月ぐらい経った頃、だいぶ寮生活にも慣れ、大学の授業にも一つ一つの講義を真剣に聞いて、サッカー以外のことにも興味を持った。短大の学科は国文学科だったから古文や漢文など日本の歴史に触れる授業が多かったので、あらためて日本の素晴らしさをブラジル🇧🇷で知った俺にとっては目から鱗だった。
外国語も英語が必須で第2外国語は選択制なので中国語かフランス語で迷ったがサッカー的にはフランス🇫🇷だろってことで半期のフランス語を学んだ。
そんなある日、当時4年生のサッカー部の主務(マネージャー)を務めていた三ケ月さんから『トミ、ちょっとマネージャーになるの考えてくれないかな。コーチの勉強はそのまま出来るけど、あまりサッカー部の練習には出れなくなるかもしれない。』と言われた。その場ですぐ返事が出来なかったので、『少し考えますね。』とその場をやり過ごした。
(マネージャーか...もともとコーチになりたくて国士舘に来たのに、マネージャーになるために来た訳じゃないしなぁ。)と思いながら友達や先輩、恩師の南谷先生にも電話して相談した。すると南谷先生が『大学では何でも為になるから、やったらいいじゃないか?』と言われ、三ケ月さんに『とりあえず1年間マネージャーやってみます!』と返事をした。
俺が1年生の時の国士舘大学サッカー部もめちゃくちゃ強くて、後にプロになって行った選手がトップチームの24名中半分ぐらいいたんじゃないかっていうぐらい素晴らしい選手が集まっていた。
1998年の関東大学サッカー選手権優勝、夏の総理大臣杯全国優勝、冬のインカレ全国優勝とその年3冠を達成した。
そんなチームの裏方で、選手たちの世話や合宿のやり繰り、遠征のスケジュールを監督やコーチ達と相談して決めたり、JFL(日本フットボールリーグ)にも1チーム出場していたのでホームゲームの運営等...etc。
いま考えると指導者として、オンザピッチ以外のことはすべて大学時代に経験出来ていた。
大学2年生になる頃には、前任の三ケ月さんから引き継ぎを受け主務としてサッカー部を支える立場となり、前述の通りC2の練習にはあまり出られなくなった。仲間と一緒にサッカーの練習をすることは単純に楽しかったし、ボールを蹴ってるときが一番楽しいのは今も変わらない。
だから、マネージャーの仕事がなくて時間があればグラウンドで仲間とミニゲームしたり、ボール回ししたり楽しい時間を過ごしていた。
当時同級生に、俺と同じく2浪して大学に来た『たっちゃん』や、1つ上の学年の先輩だけど同じ年の『みやっち』、そして同じ2年生で2つ下の『エバ』。まぁ、卒業して今だに4人で会うぐらいだから相当気が合ったんだな。
毎日彼らと一緒にいると、余計なことに気を遣わず、言いたいこと何でも相談できる仲だった。
よくカラオケも行ったし、酒も飲んだし、合コンもやったなぁ。
そんな大学生活で俺はマネージャーという立場だからいろんなモノが見えた。
監督、コーチのことはもちろん、チームマネジメント、選手管理、選手たちのオフザピッチの姿、寮での生活、大学の授業での振る舞い...etc。
後にプロ選手になったり、クラブチームの代表者や高校の先生や監督、サッカー協会、Jリーグのコーチ、監督、スカウト、GM、社長...etc。
共通項は何だろう...めちゃくちゃサッカー上手かったのにプロにもなれなかった選手もいたし、サッカーは決して群を抜いて上手くなかったのに長くプロサッカー人生を続けられた選手たちもいた。そもそも上手い下手なんていう基準は人それぞれ違うんだし、物差しはその監督、コーチ、スカウトの目👀によっても違う。
だから、チームによって合う選手と合わない選手がいる。だから、成功する選手ってもちろん自分の武器や特徴のある選手だけど、その監督やチームが求めていることにアジャストできる選手。
言うなればアメーバ🦠のようにな順応性があるが唯一無二の存在感があること。
そんな見方を大学時代はしながら、裏方として3年間マネージャーという役割をやり切った。

まだまだ、書き足りないがいよいよ退院する日を迎えたので、次回はいよいよサッカーコーチとしての記事だな😊👍

いいなと思ったら応援しよう!