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ブラジル留学時代〜後編〜

憧れのブラジル留学も6ヶ月が経ち12月に一度日本に帰国した。再度観光ビザを取り直して出発するまで約3ヶ月。その間、少しでもアルバイトをしてお金💰を貯めることと、指導者としての学びを少しでもすることにとことん時間を使った。
小学生の時の監督の窪田さんの材木屋『谷田木材』で雑用のアルバイトをして、夕方から毎週木曜日は清水トレセンの練習を見に行くついでに三島や沼津の有望な選手たちを一緒に車に乗せて連れて行って練習に参加させたり、清水東高校サッカー部、清水商業サッカー部、静岡学園サッカー部など静岡の雄と言われている高校の練習にも時間さえあれば見に通った。
また、アスルクラロ沼津の前身沼津セントラルの山本浩義さんにも連絡して、小学生のスクールの見学に行った。

そしてまたブラジル🇧🇷に旅立つ日がやって来た。さすがに2回目のブラジル行き、何だか前日までバタバタしてたせいか、『ちょっとまたブラジル🇧🇷行って来るわ!』な感じで出発した気がする。
初めて飛行機に乗った9ヶ月前とは全然気持ちも見てる景色も違っていた。楽しみやワクワクというより、覚悟みたいなものが自分の胎(はら)に決まった感じだった。
ブラジルについて間も無く、その年のコーチングコースに通った。講師は昨年同様フェルナンドが務め、論理的にブラジルサッカーを掘り下げ、なぜ世界一のサッカー王国として君臨しているか説いた。
そして、サンパウロ州立大学のコーチングコースが終わると次はバスで18時間かけてリオグランドスル州のグレミオFCに向かった。
当時、アカデミーのジュベニール(U-14)の監督をしていたアルマンドと日本で知り合って、ブラジルに着いてから何度か電話をして、自ら研修を申し込んだ。若干20歳の俺なんか、ブラジル人から見たら『何しに来た❓』って感じだったと思う。日本人がどれだけサッカーを学んだところでブラジルには勝てっこないと誰もが言っていた。
実は俺がブラジリに初めて留学した1996年、その7月21日にあのアトランタオリンピックの予選リーグでオリンピック日本代表がブラジル代表に1-0で勝ってマイアミの奇跡と言われた。その時ゴールを決めた選手が先日アスルクラロ沼津で現役引退した伊東輝悦選手だった。


それ以来、ブラジルで日本人を見るとブラジル人は『イトー、イトー❗️』と言って来る機会が本当に増えた。
どうしたら、奇跡とかじゃなくてブラジルに勝てる選手やチームを育てることが出来るんだろう?単純にそんな視点で、残りのブラジル留学の日々が積み上げられた。
話は飛んだが、俺がグレミオFCに研修に行った時にジュベニールのチームには後にバロンドールを獲得するロナウジーニョがいた。

毎朝チームバスに一緒に乗せてもらい、練習場まで通った。スタッフミーティングにも同席させてくれて、どんな練習をどうやってやるのかその日の練習の打ち合わせが毎日行われていた。
コーチ達がそれぞれの役割の中ではっきりとプロとしての発言をし、結果を求めていた。
ある日の練習を見て、フィジカルコーチに練習が終わった後に質問したことがあったのを思い出した。
この日はOFF明けで、フィジカルトレーニングが中心なメニューが組まれていた。もちれん、選手たちはグラウンドに来る前からある程度メニューは把握している。
練習前に重い雰囲気だった選手たちが、フィジカルコーチのウォーミングアップを始めた瞬間、ワイワイ言いながら笑顔が絶えなかった。
『あのウォーミングアップは最初から考えていたんですか?』
彼の答えは『Não(ナォン)』だった。
選手たちの雰囲気や状態を見てメニューが変わることがある。大切なのは選手たちにとってそれが正しいかどうかだけだと、言い切られた。
当時、日本サッカー協会はドイツ、オランダ、そしてスペインなどのトレーニングメニューを日本人に対してもそのまま同じことをさせていた。
当時の日本の指導者で、選手たちにカスタマイズしてその選手のためにメニューを落とし込んだ指導者が何人いたのだろう...。
そんなことを思いながら、グレミオFCではU8スクールからジュニオール(U-17)までのカテゴリーの練習や試合に帯同して約2週間の研修を終えた。
余談だが、当初10日間の滞在費(ホテル代や食費)しか持っていなかった俺はアルマンドに、『明日もうサンパウロに帰るよ』と伝えたら、『トミ、もう少しいればいい。ホテル代は私が出すから。』と。
一瞬、ポルトガル語を聞き間違えたかと思ってもう一度聞き直したが、アルマンドが残りを払うと言って、ホテルのフロントにそのまま言ってもう4日間の代金を払ってくれた。
たった一度、千葉県で開催されたサッカークリニック(千葉国際高校)をたまたま見学に行って、話をして連絡先を聞いた日本人の若者にそこまでしてくれる意味も理由も当時は分からなかった。
ただ、今は分かる気がする。ブラジルから名もなき若者が日本にサッカーを学びに来て、滞在費がなくて帰りそうになったら、少しかもしれないけど同じようにするかもしれない。

グレミオFCでの研修を終えてサンパウロに戻って間も無く、日本から電話が入った。
おじいちゃんが病気になって、12月の帰国まで間に合うかどうか、と言われた。
苦渋の決断だったが、大好きなおじいちゃんに会うことを優先して、3ヶ月早く2度目のブラジル留学を終えた。
また、ブラジルに帰って来れかな...とぶらじるの夜景を夜中の飛行機から眺めながら帰国の途についた。

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