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夢だったブラジルに向けて 出発まで🛫🇧🇷✨
高校3年生の卒業間近だったと思う。
日大の統一テストが年末にあって、当然選手県の県予選をやっていたので勉強という勉強はしてなかったし、もともと頭いい方ではないのでそれほど点数が取れず、日大の短期大学なら付属高推薦で進学できると言われたが、やりたい事もない、学びたい学部学科でもなかったので、浪人して行きたい大学に行くか、サッカーの指導者として勉強していくか、当日のサッカー部監督の南谷先生に相談に行った。
すると、すぐに『ブラジル🇧🇷に、サッカーも出来てコーチの勉強が出来る学校があるから聞いてみたらいい。』と札幌大学の柴田先生(日本にフットサルを広めるきっかけとなったサロンフットボールの先駆者)を紹介して頂き、お電話してすぐに種類を送ってもらった。
自分の心の中では即決だった。プロサッカー選手は諦めたもののサッカーが大好きだし、今度はプロのコーチになって子どもたちや日本代表の監督になりたい、と決心していた。
父と母にも正直に自分の思いを伝えたら、『裕にはサッカーしかないから、大学に行ったつもりで頑張ってくれば。』と背中を押してくれた。
話が決まれば、あとは早い。
卒業と同時に自動車免許🪪を取り、アルバイトで少しでもお金💴を貯めて、夕方からは小学生時代の向山SSS監督の窪田さんがやってた、谷田木材トレーニングのコーチをやったり、三島トレセン(中学生)の練習や遠征に帯同したり、三島市役所に電話して、三島市内にポルトガル語を教えてくれるブラジル人がいないか聞いたり(横浜ゴムに出稼ぎに来ていた日系ブラジル人のイノウエさんに週2回夜ポルトガル語を学んだ)...etc。
当初は1996年4月にブラジル🇧🇷に出発予定でしたが、サッカー留学ビザがなかなかおりない。
まぁ、今となっては事情は理解できるが当時は、何で待っても待ってもビザがおりないんだろう、と両親も俺ももどかしく時間だけが過ぎていった。そして、旅行会社の方もさすがにしびれを切らしたのか、『観光ビザに切り替えましょう!ただし、6ヶ月たったら一度日本に帰国して再度観光ビザを取り直してまたブラジルに戻って下さい。』と。なかなかの強行パターンだったが、両親も余計な出費なのに文句も言わず最終的に1996年7月に成田空港から7人の仲間たち(日大三島高校の2つ上の三輪さん以外はみんな空港で初めて会うサッカー留学生たち)と一緒に一路ブラジル🇧🇷のサンパウロ空港に旅立った。